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社会保険労務士 大阪府大阪市
労務士 山口事務所
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2019-03-06T11:36:29Z
roumushi
2019-03-06T11:36:29Z
2019-03-06T20:36:29+09:00
懲戒解雇と退職金不支給と読み替える。
《公共の平安をみだす者、すこしも法律にしたがわない者、人々がその下に結合し、たがいに防衛し合う条件をやぶる者-このような者は社会から除名されなければならない。つまり追放である。》
解雇については理解されてないため濫用が多いが、根源は秩序維持のために行われる。
《追放刑についても、できるかぎり恣意的でなく、また、できるかぎり明確に法律によって規定されなければならない。そして、いつでも彼がみずからの無罪を立証することができる、という神聖な権利は留保してやらねばならない。》
《追放刑を科するためには、再犯者よりは初犯者に、外国人よりは国民に、よりきびしい理由が要求されるべきだろう。》
『労働契約法第十六条 解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする』
また今日では、「弁明の機会」、初違反でいきなりの解雇規定適用は濫用のおそれが高いとされているところである。
《だが、追放刑に処せられ、彼がその一員であった社会から永久に除名された者の財産まで同時に没収するべきであろうか?》
《財産を失わせることは、追放よりも重い刑罰である。だから、犯罪の重さに比例していくつかの段階をつくり、そのあるばあいには追放者の財産の一部分だけを没収し、あるばあいにはその全財産を没収し、また他のばあいには追放刑だけで没収はまったくともなわない、というようにすべきだ。》
その会社における退職金の性質がまず問われる。制度としてない会社もあるので、どういう理由で支給することにしているのだろうか。あまり意識されていないことも多いが、長い勤続つまり定着を意図され、また昇進等に伴い段階的に金額も上昇する設計であるところから、賃金制度としての給与の後払い的な性質という解釈が多い(月額給与のプールという話ではない。)。そこから、全額不支給についてはそれまでの寄与度を打ち消すほどの懲戒事由に該当するのかが争点となっている。またこれ公定化されているわけではないので、これまでのその会社での懲戒履歴との公平性、妥当性、相当性などの情報が必要になってくるものである。]]>
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roumushi
2018-11-27T11:04:51Z
2018-11-27T20:04:51+09:00
労務管理に引き込むには無理がある題目であるが、一通り見ておく。
解説によれば、ベッカリーアが死刑制度廃止を唱えた先駆者ということであるが、素直には読めない。
《人間が同胞をぎゃく殺する「権利」を誰がいつたい与えることができたのか?この権利はたしかに主権と法律との基礎になっている権利とは別のものだ。》
《法律とは―略-個々人の意思の総体である総意を表示する。さてしかし、誰が彼の生命を奪う「権利」を他の人々に与えたいなどと思ったのであろうか?》
《もしこのようなことが肯定されるのだとすれば、このような原理と、自殺を禁じているいましめとをどうやって調和させるというのか?人間がみずからを殺す権利がないというのなら、その権利を他人に-たとえそれが社会であったとしても-ゆずり渡すことはできないはずだ。》
自殺の禁止ということとの整合性となると、素直に読めないのであるが、人類学としてみれば、なかなか興味深い論理である。
なお、法が社会の総体を示すという点についても社会契約説的な理論である。
《死刑はいかなる「権利」にももとづかないものである。死刑とは1人の国民に対して国家が、彼を亡ぼすことを必要あるいは有用と判断したときに布告する宣戦である。》
一方で、ベッカリーアは「権利」論に拘泥せず、「国家の通常の状態において」死刑は有用でないとし、無政府状態にあって公共の安全を侵害する存在に対しては、必要という判断を示している。
それに引き続き、死刑の非有用性を諄々と説き始める。
《死刑は社会を侵害するつもりでいる悪人どもをその侵害からいささかもさまたげなかった。》
《人間の精神にもっとも大きな効果を与えるのは刑罰の強度でなくてその継続性である。(略)犯罪へのクツワとしては、一人の悪人の死は力よわいものでしかなく、強くながつづきのする印象を与えるのは自由を拘束された人間が家畜となりさがり、彼がかつて社会に与えた損害を身をもってつぐなっているその姿である。》
《われわれの魂は、極度の苦痛であってもそれが一時的のものであれば比較的たえられる。むしろ、長い期間のたえまない不快にたえられないのである。》
《死刑が採用されている国では、一つみせしめを示そうとする毎に、一つのあらたな犯罪が必要になるわけだ。だが終身隷役刑はたった一人の犯罪人が、国民の前にいつまでもくりかえしてみせしめの役をつとめる。》
このあたりはいかにも中世的な社会環境がみえるところである。ただ、懲戒処分の公開掲示がこれに似たものになっていて、社会的制裁になっているものとして、争われることもある。この場合、見せしめ効果は人事上必要としたうえで、ただし特定の個人に結び付く内容の情報は必要でなく、もし特定の個人と結びつく見せしめならば、必要性を超えたものとして故意・過失性が問われてくる。
懲戒処分は感情を交えず、淡々とすることである。
《処刑を見物する者の心中で、同情心が他のあらゆる感情よりも強くなる時を、だから立法者は刑の苛こくさの限度としなければならない。この限度をこえると、刑は犯人に対して科されるのでなく、見物にむけられたものとなる。》
情状酌量により罰の程度を下げるということか。ここでの趣意は、処分権の濫用は刑の意義を失い、ただ権力を誇示することになってしまうというもの。
《死刑はまた、人々にざんこく行為の手本を与えるということで、もう一つ社会にとって有害だ。》
《人殺しをいみきらい、人殺しを罰する総意の表現にほかならない法律が、公然の殺人を命令する、国民に暗殺を思いとどまらせるために殺人をする-なんとばかげていはしないか?》
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roumushi
2018-04-29T07:02:24Z
2018-04-29T16:02:24+09:00
《刑罰の目的は、感覚的存在である人間をさいなみ苦しめることでもなく、すでに犯された犯罪を犯されなかったことにすることでもない。》
《政体というものが、欲望や感情のままに動かされるどころか、個々人の欲望や感情に制限を加え調節することをもっぱらの任務とするものである以上、この政体によって無用なざんこく行為がなされることが、専制君主の怒りと熱狂とおくびょうの道具であったざんこく行為がまた用いられることが、どうしてあってよかろう。》
《刑罰はその目的として、犯人が以後社会に侵害を加えないこと、又犯人の周囲の者を罪の道から遠ざけることーこれだけを目ざしているにすぎない。》
諸種の理由で、懲戒処分制度がうまく機能している会社は珍しいのではないかと思うが、そのため、違反行為があればそれが軽度のものであっても信頼関係が崩れたとして懲戒解雇と考える使用者は多い。無論、それは懲戒権の濫用になるのであって、ここでいう「この政体によって無用なざんこく行為」はあってはいけないのである。
《歴史の中で、ぞっとするようなせめ苦が無用に加えられ、それを発明し冷然と執行した怪物どもが賢者の名をもって呼ばれているのを見るとき、誰か嫌悪に身ぶるぃしない者があろうか!》
《およそ一つの刑罰がその効果をあげるためには、犯罪者がその刑罰によって受ける損失が犯罪によって得た利得をこえれば十分なのである。》
懲戒の程度の相当性をはかるのは悩ましいが、違反の程度に少し加算するのが正当。
《人間がじぶんの行為を規制するのは、彼が知らない苦痛によってではなく、彼が知っている苦痛の反復的経験によってである。》
就業規則の周知要件はかなり重要である。懲戒処分の有効性とともに労務管理として。
《刑罰が残ぎゃくであればあるだけ、犯人は刑罰をのがれようとする。多くの犯罪はまさに、はじめの刑をのがれようとしてかさねられたものなのだ。》
複数ある違反行為の何にまず気付く必要があるか。
《おそろしい刑罰が習慣化されていた時代や国では、もっとも極道な犯罪も習慣化されていた。立法者に血の法律を示唆したその同じ気風が、暗殺者や親殺しの手にあいくちを示唆したのだ。》
"ブラック"の原因である。
《刑罰が残こくであることは、このほかにまだ二つの有害な結果-犯罪予防という刑罰とは逆な結果-を生む。
第一に。無数の犯罪と刑罰の間に、正しいつり合いを規定することはひじょうにむずかしい。なぜなら、残こくさはくふうされ、いく種類のせめ苦でもつくり出されるだろうが、どんな苦痛もそれを受ける人間の感受性と肉体の構造という限界を越えるこひとはできないから。この限界がある以上、もっと狂暴な犯罪があらわれたとしても、それにふさわしいだけ残こくな刑をみいだすことはできない。したがって犯罪がそれ以上狂暴化することを防ぎようがないことになる。》
第一番に懲戒解雇処分をすればもう後はないことになる。そしてその処分が濫用として無効になることになれば、あらためて出勤停止などのより軽い処分ができない。
《第二に。極端に残ぎゃくな刑罰は時として不罰という結果をきたす。人間性のちからは善においても同様、悪においても限界をもっている。あまりにも野蛮な処刑の光景は専制者の一時的な残ぎゃく行為としか見えず、立法がそうあるべき安定した制度として維持され得ない。》
最後に、ベッカリーアは社会通念に触れている。
《刑罰の重さはその国のその時の実状との関連においてきめられなければならない。(略)人心がおだやかになるにしたがって(略)刑罰の目的と刑罰から人々が受ける印象との間に同じ関係を保とうとするなら、刑罰のきびしさは緩和されねばならない。》
これをそのまま採用するならば、同じ会社で同じ違反行為であっも、過去の処分の程度と違うこともありうるということである。悲惨な交通事故事件から、飲酒運転とあおり運転の厳罰化に進んだのと同じである。なお、この場合そのような通念の合理的説明は最低限の要件となるであろう。]]>
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roumushi
2018-03-08T10:58:27Z
2018-03-08T19:58:27+09:00
ベッカリーアが悩んだテーマという。
《法律はたんなる意思を罰することはできないが、だからといって、ある犯罪を犯す意志の表示である実行の着手があった場合、これは刑罰に値するとみなければならない。ただしこの刑はその犯罪の既遂のばあいより軽くなければならない。
この刑罰が必要なのは、犯罪はそれがたとえ着手のほんの第一歩の段階であっても予防しなければならないからである。》
《共犯についても同様で、共犯者のうちでも直接の実行者とそうでない者との間には刑に差別をつけなければならない。
数人の人間が結託して共通の危険をおかそうとするとき、その危険が大きければ大きいだけ、彼らは危険を平等に分担しようとするものだ。だからもし法律が共犯者のうち実行者をより重く罰することを規定すれば、実行者にとってはおかす危険が大きいことになり、犯罪をたくらんだ者たちの間ですすんで実行者となる者が出にくくなる。》
労基法には罰則があり、違反の実行者としては上司や人事責任者が該当することが多いが、社長はなることが少ないようである。刑罰適用に「忖度」とか無言の要請の要素が入る余地はほぼ無い。管理責任は民事の概念である。なお、両罰として実行犯と別に法人罰も課されるが、あくまでも法人なので懲役はない。パワハラ構造と同じで、関係性からいって実行犯よりも取締役の方が捕捉されるべきであるが、そうはならずまた刑事判断は疑わしきは罰せず原則である。労働刑法の検討を求む。
《いくつかの裁判所は大罪の被告で共犯者を告げた者には刑罰免除の恩恵を与えている。これは方便だが、危険がともなうことはさけられない。危険というのは、こうすることによって、社会は、犯罪者たちの間でさえいみきらわれている裏切りを、法律によって許容することになり、裏切りはひきょうな犯罪を生むからである。これはエネルギーと勇気にもとずく犯罪よりずっと有害である。》
《犯罪を探知する手段として不罰を用いる裁判所は、そのたよりなさをみずから示している。また法律は、法律を犯すその同じ犯罪人の助けをかりることによって、その弱みをさらけだすことになる。》
《他方、共犯者を告げる犯人に対して不罰の希望を与えることは、だいそれた犯罪を未然に防ぐことになり、また大犯罪が犯されながら犯人があがらないのを見てつねに不安におののく民衆の心を安めさせるゆえんにもなる。
この方法はまた、法律すなわち社会契約をやぶる者は、個人間の契約をたやすくやぶるのだということを示してくれる。》
ここでベッカリーアは悩む。
《民衆の信頼の保証であり、人類道徳の基礎である神聖な法律は、詐欺を誘導したり、裏切りを合法化することはできない。》と。
ベッカリーアは不罰を与えると同時に、追放令を与えるべきと譲歩するも、やはり神聖な法律を汚したものとして考える。
懲戒処分においては未遂と既判とで相当な罰を与えることは可能である。密告についての取扱いを定めている会社は知らない。情報提供や秩序違反行為等を止める義務についての規定を設けているところはある。裏切りによるリークはそれまでの状況や改悛や関与の程度から相当な罰に止めるのは可能である。
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roumushi
2017-10-21T14:20:45Z
2017-10-21T23:20:45+09:00
《証拠が得られ、犯罪が確実になったら、被告がみずからを弁護するように時と方法を与えるべきだ。しかしこの期間は処罰のじん速性をそこなわないよう、なるべくみじかくしなければならない。処罰のじん速性は、すでに言ったように犯罪に対するもっとも強力なクツワである。
あるいは、誤解された人類愛にもとづいて人々は訴訟期間の短縮を批難するかもしれない。だが、もしむじつの者が危険にさらされたとしても、それは訴訟がじん速におこなわれるからではなく、それとは別な法制上の欠陥のためだということ、それどころか、訴訟がはなはだしく手間どるために、むじつの者がこうむる危険は無数に増加するということ、を洞察できる人々は、訴訟期間の短縮に賛成してくれると思う。》
就業規則違反となる事実関係が明らかになれば、速やかに懲戒に関する調査を行い、本人に弁明の機会を与える。調査は迅速に行い、処分を下す。調査から処分までの迅速性は違反者でない場合のリスクをより回避させるものであり、不安な点があればそれは調査の欠陥や懲戒規定の欠陥なのである、と読みかえられる。
《犯罪の証拠調べにあてられる期間、および被告が防ぎょするために与えられる期間を定める権限は、法律にだけ属する。もしこの権限を裁判官にもたせれば、彼は立法者の職能をおこなうことになってしまう。》
会社では三権分立ということになっていないので、厳密ではないが、就業規則に合理的な規定をするのがなお客観性の担保になろう。
さて、時効である。懲戒規定に時効を設けている例は知らないが、刑事訴訟法に準じて進めることはまちがいないので、あまりにも過去の違反事実を取り上げた処分は、無効になる可能性は高いだろう。
《人々の記憶に長くのこるような凶悪な犯罪については、ひとたびその犯罪事実が証明されたうえは、逃亡によって処罰をのがれようとする犯人を助ける結果になる時効は一さい認めてはならない。しかし、あまり大したことのない、すぐ忘れられてしまうような犯罪については、おのずから事情がことなる。このばあいには一定の時効期間を定め一人の市民を不確実な運命からすくってやるべきだ。つまり、逃亡犯人はみずから科した追放罪によって十分罰されたのだから、それ以上新しい罪を受けはしまいかと気づかうことなしに、ふたたび世に出られるようにしてやるべきだ。犯罪が長い間うずもれ、世に知られずにいれば、ことさらこれを罰してみせしめをする必要がなくなるから、それよりも犯人に更生の余地を与えたほうがいい。》
みずから追放罪を科すとはユニークである。懲戒とは関係ないため、端折るが、「犯人がみずから科した追放刑および判決にさきだって被告人が受けた未決勾留期間を宣告罪刑の一部に参入する」という理論も出している。
《犯罪は二種類に区別することができる。第一の種類に属するのは殺人からはじまってそれ以上あらゆる極端な犯罪、第二の種類に属するのは殺人よりも軽い犯罪である。
この分け方は自然の法則からみちびかれたものである。生命の安全は自然の権利であり、財産の安全は社会的な権利である。》
ベッカリーアは言う。生命の殺人を遠ざける憐みの感情を押し殺してしまう動機はそう起こるものではないが、所有権を侵害する動機はいくらでもある、と。
《極端な方の犯罪にあっては、それがまれにしか起こらないものであるという道理じたいから、被告がむじつである確率は大きい。したがって時効期間は長くされるべきだし審理の期間は短くされるべきだ。なぜなら、こうして確定判決をはやめることによって、人々が不罰の期待をいだくのをさまたげることができるから。そして犯罪の凶悪性が大きいほど、この期待を人々の心にいだかせておくのは危険だから。》
これはわかりにくい理論である。犯罪の種類と、それに対する時効期間と証拠調べのための期間の関係について論じている。
《第二の軽い犯罪にあっては、反たいに被告がむじつである確率は少いから審理期間は長くし、不罰にともなう危険は小さいから時効期間は短くするべきである。》
次の説明により、意図するものがみえてくる。懲戒処分は一度取り上げられ処分されなかつたものは蒸し返すことを禁じているが、それは時効を設けていないからである。時効規定がある場合は、蒸し返しも合理性を帯びる。
《有罪か無罪かが裁判上確認されなかった被告は、証拠不十分の理由で釈放されるが、もしその時効期間が経過しない前に新しい法定証拠が発見されたばあいは、その同一の犯罪についてふたたび逮捕されふたたび審理に付されうるということに注意していただきたい。》
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roumushi
2017-09-09T12:31:01Z
2017-09-09T21:31:01+09:00
《被告に対する拷問は大多数の国でおこなわれてきた野蛮行為である。それは取調べにさいして用いられるものであって、あるいは被告から犯罪の自白をひき出すために、あるいは被告が供述の中でおちいった矛盾をただすために、あるいは共犯を発見するために、そしてまたその被告が当面それについて訴追を受けてはいないが、あるいは犯人かもしれない他の犯罪をひきださせるために、加えられる。》
労務管理の観点に置き換えてみると、上記のようなケースはほとんど見られなくなった。今日において見受けられるのは、単純な暴力そして嫌がらせである。しかもそのほとんどは取調べの域に達していない段階のものであり、そしてそれがすべてである。組織秩序をベースとしないトラブル所謂パワハラがそれである。これは、日本の組織が模範もなく自然にできた状態で推移しているからである。それは主として、税制や取引等の理由での一応(株式)会社のかたちを取っているということからくる。これでは、日本の司法でその懲戒を認める要素はないはずである。
《なん人も、裁判官の判決があるまでは、有罪とみなされることはできない。社会がある市民からその公的保護をうばうことは、その市民が彼にこの保護を与えている社会契約を侵害したという宣告を受けたのち、はじめて可能になるのだ。それなのに被告が有罪であるか、無罪であるかがまだ疑わしいときに、彼に一種の刑罰(拷問)を与える権能を、裁判官に与える法律は、暴力の法でなくてなんだろう?》
正当な懲戒手続を受ける権利が守られなければならない。日本の司法では、この侵害を不法行為だと積極的に適用するまでには至っていないのかもしれないが、手続きの不備をもって、懲戒事由を問うまでもなく、その処分を無効とすることは期待し得る。
《いったい刑罰の目的はなにか?それは犯罪におもむこうとする他の人々の心にみせしめによってきざまれる威嚇である。》
したがって、その公表は合理性がある。ただし、処分者を知らせることには合理性がない。
《しかし拷問は-圧政が、慣行的に、人目はなれた監房の中で犯人にとおなじくむじつの者にも加える、この秘密のせめ苦は-どう弁解できるのか?》
《すでに犯された犯罪で、もういまさら救済方法のないものは、つぎの目的のため以外に政治社会によって罰されるべきでない。すなわち不罰が、同じような犯罪を犯しても罰されないという希望を、他の人々にもたせるばあいにかぎって、その希望をおいはらうために犯人を罰してよいのである。》
《私はさらにつけくわえるが、ある人間にみずからの告発者になれと要求すること、まるで真実が不幸な人間の筋肉やせんいの中にやどっているとでもいうように、せめ苦によって被告から真実をしぼり出そうとすることは、言語道断な、ばかげたことだ。》
《われわれの意思行為は、その行為の原因となっている感覚におよぼす圧力に比例する。しかも人間の感受性には限度がある。だから苦痛の圧力が、被告の魂の根かぎりの力をくいつくしてしまうまで強まったとき、彼はその瞬間もう目の前の苦痛からのがれるもっともてっとりばやい方法をとることしか考えなくなる。このようにして、被告の答弁は火やにえ湯が人間のヒフに与える結果のように、必然の結果でしかない。
こうしてせめ苦に対する抵抗力の弱いむじつの者はじぶんは有罪だとじぶんでさけぶのだ。有罪の者とむじつの者とを見わけるためのその方法じたいが、有罪とむじつの区別をけしてしまうのだ。
拷問は、だから、しばしば、弱いむじつの者にとっては断罪の確実な手段であり、がんじょうな悪党にとっては無罪放免の手段である。》
後半は箇条書きで。
・被告人の自白を求める習慣は宗教的なざんげというところに由来するとのこと。
・ローマ立法では拷問の非合理性は既に取上げられており、いっさいの権利を拒まれていた奴隷のみ拷問を許していたとのこと。
・軍隊の法律は拷問を認めていないとのこと。「人殺しに慣れ、血にしたしんでいるこれらの人々が、平和な国家の立法者に、より人道的に人を裁くという異本を示すとは!」と皮肉的に記している。
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http://www.shigyoblog.com/roumushi/:939:62882
roumushi
2016-12-25T13:26:03Z
2016-12-25T22:26:03+09:00
《宣誓は、被告が事実をいつわることに最大の利益をもっているばあいでも、真実をいうと誓わせる。ーここにもまた、法律と自然の感情との間の矛盾がある。まるで、人間は「じぶんを破滅におとしいれます」とすすんで誓うことができるというように!たいがいの人の心の中で、宗教心は利害の声にさえぎられてしまわないとでもいうように!
あらゆる時代の歴史はわれわれに教えている。このとうとい天のたまものほど濫用されているものはないことを。そして、もつとも有益であると見られている人々さえも日々宣誓をおかしているのに、どうして悪党がこれを尊重するわけがあろう?」
「宣誓」ということに否定的とする。
《なぜ人間を、神をけがすか、じぶんを破滅にみちびくかのおそろしい二者択一になげこもうとするのか!被告にこのような宣誓を命ずる法律は、被告に悪いキリスト教徒になるか、でなければ宣誓のじゅん死者になれと要求するものだ。
このようにして宣誓は、たいがいの人間の心の中で、正直のたった一つの担保である宗教的感情のあらゆる力を破かいし、宣誓はしだいに一つのたんなる形式に堕してしまう。
経験は、宣誓がどれほど役に立たないものであるかを示している。宣誓が被告に真実を言わせると信じている裁判官は一人もいないのだから。
そして条理もまた、それを示している。すべて人間の自然な感情に反する法律は、無力であり有害なのだから。》
宗教的となると私にはよくわからないので、人道的観点から理解する。法律で「意思」というものの背景には、聖なるものという認識があり、したがってそれを汚すとか否定するということについてはペナルティがあると考えられる。
また、被告に自己の言葉について宣誓をさせる行為はナンセンスというもの。現代法ではは、被告にではなく、証人や鑑定人について行うものとしている。
なお、宣誓に次ぐものとして自白がある。これもまた現代法では制限されている。
懲戒処分において宣誓させることはないとしても、自白に似たことはさせていることが多い。よく言われるのは、精神の自由を損なう始末書を出させることはできないというものですが、会社で既に文面を用意したものにサインするようにという認識ではないでしょうか。宗教的観点ならずともこれはさすがに「意思」ではありません。
「意思」を軽んずる傾向の強い労使関係であり、また懲戒自体も軽んじていると、結局会社は正当な主張が何一つ通らず、また実際に損害の発生や組織秩序に不具合をきたすことになります。
従来は事業一家として、解雇はまずなく、懲戒もない。その代り、社員〈労働者というより適切な表現〉は労働法に関係なく会社人間として活動〈労働というより適切〉していました。労働時間不明、賃金は会社規程として信じて活動し、関心事はもっぱら人事でした。すなわち疑似家族集団だったわけですが、主として退職金原資の枯渇事態から「リストラ」という手法が導入されて以降は、使用者と労働者という労働法の世界に戻った?わけです。言い換えれば、労働法は社会的に建前から本音の位置に移行したのです。これに伴い、その法改正に実効性が求められてきました。例えば「努力規定」は何もしなくてよい非強制規定という言い方がありますが、努力したかどうかの証明いかんで判断が下されるケースも増えてくるんではないかと考えます。]]>
http://www.shigyoblog.com/roumushi/:939:62654
roumushi
2016-10-10T11:06:27Z
2016-10-10T20:06:27+09:00
《われわれの法律は誘導尋問を禁じている。誘導尋問とは、学者たちによれば、犯罪の構成要件そのものに関する尋問である。われわれの法律は、尋問が、犯罪の遂行された様態とその環境にかぎられることを要求する。
誘導尋問とは、いいかえれば、犯罪そのものに直接ふれる答を、被疑者から誘導する尋問である。刑法学者によれば、尋問は間接的にのみ犯罪事実そのものにおよぶことができ、決して直接的にこれにふれてはならないことになっている。
このような尋問方法が採用されている理由は、被疑者から自己救済になるような答弁を誘発することを避けるためであろう。あるいは、犯人がじぶんでじぶんを訴追するなどということがおこれば、それは自然に反するざんこくなことだと思われたのであろう。》
《しかし、そのいずれの動機からであろうと誘導尋問を禁じようというのであるかぎり、法律はいちじるしい自己むじゅんをおかしているのである。法律は同時に拷問を許しているが、このせめ苦より以上に誘導的な尋問はないのだから。》
拷問があった場合、その痛みに耐えかねて嘘の自白が行われることはドラマでよく観るところである。それを許しておいて、犯罪を犯したことについての直接的な尋問は禁止しているということはおかしいということである。また、ベッカリーアは拷問に耐える個人差で刑罰の有無が決まることになりなおおかしいと述べてある。
《さいごにもう一つ指摘しておきたい。適法な尋問を受けても、しつように答弁をこばむ者は法律によって規定された刑罰を科せられてよい。そしてその刑はもっとも重いものでよい。なぜなら、犯人が刑罰を受けることによって公衆に示さねばならないはずのみせしめを、黙否によってまぬがれさせてはならないからである。》
黙秘権という権利は不思議なものである。自己の不利益な供述は強制されないという説明だが、単純に考えれば犯罪を犯したと言っているものである。民事事件では原告の主張を認めたものとみなされる。したがって不利な状態であることはまちがいないが、疑わしきは罰せずとして、確定的な客観的証拠がなければ罰せられない。また、自白のみでも同様である。
《しかしこうした特別な刑罰も、被告がその訴追を受けている犯罪をおかしたことはうたがいの余地がないというばあいには、必要がなくなる。他の証拠によって犯人が有罪だということが証明されれば、自白も不必要であり、したがって拷問も不要になるから。
このさいごのばあいがむしろふつうである。なぜなら経験上、たいがいの刑事訴訟において、被告は犯罪事実を否認するものだから。》
懲戒処分の事項は具体的な違反行為が定められている一方、それにも増して多いのは包括的な違反行為である。企業秩序を乱したなどという規定は主観的に解釈され濫用されがちであり、その際該当対象者からの自白(謝罪・誓約)をもって処分に踏み切る契機にしていることが多いと思われるが、包括条項違反は文字どおり包括的な証明が処分者には求められると考える。]]>
http://www.shigyoblog.com/roumushi/:939:62585
roumushi
2016-10-06T14:28:56Z
2016-10-06T23:28:56+09:00
《犯罪の密告はあきらかな弊害であるが、多くの国で是認され、必要なものとさえなっている。それはその国々の政府が弱体であるからだ。》
密告、誣告、告発、告訴、通報と色々似たような類の区分けがなされているが、その内容によって使い分けられているようである。それはともかく、ベッカリーアは密告を弊害と言っており、逆説的に述べられたものではなくそのままの意である。あまり考えたことは無いが、この認識には少し違和感を感じる。
《こんなならわしは人間をうそつきにし、不誠実にする。同胞を密告者ではないかとうたがう者は、やがて同胞を敵と思うようになる。人々はありのままの感情を仮面の下にかくす習慣がつき、他人に対して感情をかくす習慣はやがてじぶんみずからの感情をいつわる習慣になる。
こんないまわしいところまで行ってしまった人々は、なんとあわれむべきだろう!》
《誣告が専制主義のもっともかたいたてである秘密で武装されたとき、だれがこれからじぶんを守ることができよう?
君主が臣民の一人一人を敵ではないかとうたがい、公共の安全を確保するためには国民一人一人の安全をかきみださなければならないような政体はなんとみじめなことだろう。
いったい、告発や科刑が秘密のうちにおこなわれることを正当づける理由となるものはなにか?》
ここでベッカリーアのいう密告とその効果が捉えられ、私の違和感も解消された。誣告という言葉を調べると、人をおとしいれるための偽りの密告ということである。密告自体には嘘偽りという意味は含まれないが、ベッカリーアは混同させている。
《モンテスキューはすでにいっている。ー公共の福祉に対する愛が、国民の第一の感情である共和政体の国の精神には、公然の告訴が適合する。王国においては、その政体の本質上、国家に対する愛はきわめて弱いものであるから、その司法官に、社会の名において法律違反者を訴追する任務を負わせることが賢明である。しかし、共和制であろうと王政であろうと、すべての政府は、誣告者に対しては、その被誣告者が有罪であったばあい受けるであろう同じ刑罰を科すべきだーと。》
最後は文章としておかしいので、意を汲む必要がある。]]>
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roumushi
2016-03-27T12:34:59Z
2016-03-27T21:34:59+09:00
《すべて良い法制のもとでは、承認に対する信ぴょう性の度合と、犯罪を認定するに必要な証拠の性質とを正確にきめておくことが重要なことになっている。》
《すべて正常な理性をもった人間、いいかえればそのもつ観念に統一があり、その感情が他の人々の感情とちがわない人間なら、証人となることができる。しかし証人に与えられる信ぴょう性は、彼が真実をいうことに利益をもつか、虚偽の申立をすることに利益をもつかによって測定されるべきものだ。》
《略、もしうそを言うことに利益をもたなければ、彼らがうそをいうはずはないではないか。》
ある発言を証拠として採用するかどうかの判断において、その発言者の意図を推し量る。そしてその発言が発言者にとって何ら利益をもたらさない場合、その証拠的価値は高いものとして判断しうる。
少し話は逸れるが、労働条件の不利益変更の場合などで、不利益を受ける労働者が自らそれを是認する書面が出される場合がある。この場合、基本認識としては当人の自由意思を抑圧する何かがあったという推定が働くが、それを立証しないとき、当人は公式の場においてあらためてそれを是認したときは、その基本認識をもつ必要がなくなる。
ベッカリーアは続いて刑の宣告を受けた犯罪人の証言について、「彼は市民権上死んだ。そして死者はなんの行為もすることができない。」とする法学者を批判している。「真実発見の利益のため」、「被告の不幸な境地をたすけるため」、「時事の性質を変えるかもしれない新しい証言によって他の犯人あるいは被告みずからの手であかしを立てる」ことに利益があり、第一「裁判の進行を妨げることはないはずだ」と述べている。
《略、証人の信ぴょう力は、彼が被告に対していだいている好悪の感情その他被告との間の利害関係の密接さに反比例する。》
《ただ一人の証言だけでは不十分である。証人が認めることを被告が否認したら、確実なものはなにもなくなってしまう。そして「各人はむじつであると信じられなければならない」という法だけがそこに妥当するのだ。》
「各人はむじつであると信じられなければならない」という法は、疑わしきは罰せず=被告人の利益に従う原則のことをいう。
《証人が特殊の社会の成員であり、その社会の慣習やおきてが一般に知られていないばあい、あるいは一般のそれとことなるばあいもまたその証人に対してはあまり信頼が置けない。なぜならその証人は彼じしんの固有の欲望や熱情のほかに、その属している社会の欲望や熱情をもっているからである。》
日本企業の労働者の、社内に関する発言は、まずもって証拠力がないものと考えられた。終身雇用制は単なる人事制度ではなく、所属する会社も普通名詞の「会社」ではなく、一生身を捧げる対象であり、そして社会は「会社社会」としてそれを常識として倫理化していたからである。それが中高年リストラにはじまり今日の非正規雇用が労働の半数を占めていった流れによって、日本企業の社内においても客観性、社会妥当性、合理性など倫理的に確立していく必要に駆られていっているのである。無論、積極的にというものではないが、それら以外に、律するものとして具体的なものは何もないのである。無論、日本の会社はそれぞれの特徴をもっており、今なお雇用保障ができている会社もなくはないにせよ、もはや「会社」だからある程度の迷惑は許されるという社会ではなくなった。国際力を高める産業だから国民は彼等のする大体のことを忍ぶという国家体制からもまた脱却してしまっている。昭和の世界が忘れ去られていっているので加筆しておく。
《さいごに、たんにある者の発言だけで犯罪が構成されるばあい(略)証人の証言はほとんど無価値である。なぜなら、ことばの調子、身ぶり、その他各人がそのことばに付与しているそれぞれことなった観念にまつわるいっさいのものが、同じ発言をすっかり変質させ、つくりかえてしまうから、一つの発言を正確に反復することはほとんど不可能だから。
ほんとうに犯罪を構成するような違法な行為ならば、かならず、その行為にともなう無数の情況や、その行為から生まれる結果の中にいちじるしい証跡をのこしているものである。だが発言はなにものこさない。ただ記憶の中に存在するだけだ。そしてこの記憶というものがまた、その発言を聞いた者にとってしばしば不忠実であり、そそられるままに変わりやすいものなのである。
(略)違法行為を立証するために引用される数多い事情は、そのまま被告の立場を弁護する役に立つものだが、発言が構成する犯罪では、被告が自己弁護する方法がまったくないのだから。》
労働問題は基本的に物証に乏しく状況証拠や証言となる。したがって、権利の濫用と認定されるリスクがかなり大きく、確実性を重視する限りその人事権を行使することはかなり少ない。その場合において、証言に対する「自己弁護」の機会とその内容についての誠実な審議は重要視される観点となる。]]>
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