●「千円の金」・安田善次郎(富士銀行の前身安田銀行の創業者)
手を空しくしていては、一円の金が天から降ってくるわけでもなく、地から湧いてくるわけでもない。一円や半円と言えども、それを得るためには、それ相応の努力が伴わなければならない。だから私は、自分の力で千円こしらえた人には、そのこしらえたぶんだけの努力を認め、大いに敬意を表したいと思う。
 月給を貯えた人、商売の小利を積んだものにせよ、当節千円のこしらえ上げた人には、人知れぬ、粒々辛苦の努力が払われたに違いない。
 私は大ざっぱに見て、この千円のできる人、できない人の二種類に分けてみたいと思うほどである。
 無一物から千円ができる人なら、さらに五千円、一万円、さらにまた十万円もできる可能性のある人である。
 意志薄弱で、この千円がどうしてもできない人は、ほかに何をやっても成功はおぼつかない人のようである。
 当時の千円とは、現在では、米を約260俵ほどは買えた。
(参考までに)米1俵は60kg、10kg、5,000円
       5,000円×6×260=7,800,000円
 ところで安田は、1838年に富山の貧農の家庭に生まれた。暮らしがままならず、幼い頃から、野菜売り、写本(当時は印刷技術が確立されていないから、一字一字書き移していた)などで稼いでいた。
 無資本から大出世した人で有名である。寄付も多く、現在も有名な東大の「安田講堂」なども有名である。最期は、寄付のことも知らぬ暴漢に殺された。
21年02月01日 | Category: profile
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「慎みと嗜み」・渋沢栄一(明治・大正期の日本財界の功労者)
●人間至るところに先生あり。 論語にも「三人行けば必ず我が師あり」と教えられている。
●内に省み疚(やま)しからざれば、千万人といえどもわれ行かん、との自信は世故に通じ、学問を積んでおれば、誰でもなれる境地である。
●成功には嫉視がともない、成功者の多くは老獪(ろうかい)と思われやすい。地位と名誉にはそれに付随する慎みのあることを忘れてはならない。
●礼は、〈仁・義・忠・信〉の始まりでもあり、またその仕上げでもある。
●礼儀はあくまでも精神を学ぶ。あまりにその形式の細目にこだわり過ぎると、かえってその精神を没却して、もぬけのカラになるおそれがある。カラの礼儀は絶対に廃すべきだ。
●文雅(文字を用いた学問)の嗜みは人品を高尚にする。しかし、これとてあまりに過ぎれば、軽んぜられることになる。
21年01月01日 | Category: profile
Posted by: mao
●「勉強と修業」・小菅丹治(伊勢丹の創業者)
小菅丹治は神奈川県山北(足柄上)の農家の七男坊であった。耕地の少ない土地柄で長男以外は百姓にもなれない。そこで小田原の町へ奉公に出た。わずか11歳のときである。
奉公先は内野という呉服屋だった。わりと大きな店で番頭も何人もいた。そういった連中にこづかれ、からかわれ、また教えられて大きくなった。何しろ11歳から28歳までいたのだから勤めたというより育ててもらった、といったほうがいいかも知れない。
この間に小僧から中僧へ、さらに番頭にもなった。彼の生涯における全ての勉強と修業は、この17年間に積まれたといってもいい。
その後東京に出て、苦労の上にも苦労を重ねた。しかもデパート経営では40、50になっても新しく勉強と苦労をし直した。勉強と修業は、いつまでたってもこれでいいということはないということだ。
伊勢丹は、繊維(特に和装)に強いという評判が長い間あったが、こういう経緯があったのである。その伊勢丹は、1886年に中仙道沿いの「伊勢屋丹治呉服店」として、神田旅籠町に開業した。
1923年には、関東大震災が起き「神田店」を焼失。
1924年には、神田店を再建すると同時に、それまでの座売り方式から、現在の総陳列法へと改めて、現在のデパート方式に変革した。
20年12月01日 | Category: profile
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●「天の一物を大切に」・松下幸之助(松下電器の創業者)
不思議なもので、人間というものは悪いことばかりではないし、また、いいことばかりでもない。いい反面には悪いこともついて回る。
だからおのおのの段階で、自分の為すべきことを、為して行くというような、物の考え方をお互いに持たなければならない。
とにかく人間の感情というものは、うまく行けば有頂天になるが、悪くなったら悲観する。起伏が非常に激しい。これは人間の一つの弱い面だが、それをなるべく少なくし、いつの場合でも淡々とやる、というのが大切である。
何も心の修行というような大げさに考えなくても、信念をもって、希望を失わないでやっていくことが大切である。
このことを言い換えれば、「天は二物を与えず」というが、逆に、一物は与えてくれるということ。その与えられた一つの物を育てあげることが大切である。
松下さんは、小学校三年までしか通学をしていない。そしてある自転車店に勤めることになった。その勤めぶりは、とにかく「サービス精神」というものを徹底して身につけた。
たとえば、来客があり、品物を売った。ところが玄関を出たところで転んで折角買った物を破損してしまった。「この場合、売った人間はどうすべきか」というのが松下さんの出題。
答えは、「新品を差し上げてお帰しする」である。
とにかく94歳で大往生なさるまで、大活躍をなさった。
20年11月01日 | Category: profile
Posted by: mao
●王子製紙の社長の座を潔く明け渡す
明治6年、渋沢栄一の肝煎りで王子製紙の前身である抄紙会社ができ、翌7年から栄一は社務の一切に関して全権委任された。要するに名実ともに社長になった。栄一にとって我が子のような会社であった。ところが明治26年、この王子製紙に、三井の総司・中上川彦次郎の命を受け藤山雷太が専務として乗り込んできた。
三井は王子製紙の大株主であった。
そこで王子製紙を乗っ取る計画を画策した。
そして栄一に対して、社長の座を降りるよう勧告した。すると素直に社長の座を明け渡した。
あまりに素直に従ったので、当の藤山がびっくりしたという。
栄一にしてみれば、次のように考えた。
「王子製紙に大資本を投下した三井が、自らの手で経営を望むのは当然のことだ。誰の支配下に置かれようと、製紙事業が発展するならば、会社設立の趣旨は達成される」
視野の大きさが普通の人間とは比べものにならなかったのだ。
のちに当時、伏魔殿と言われた大日本製糖が危機に瀕したとき、藤山を起用し、見事会社を起死回生させたのだった。   
渋沢栄一には、私怨というものはなく、ただひたすらに、常に国家的見地から判断を下すのだった。
20年10月01日 | Category: profile
Posted by: mao
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