●生まれつき荒々しき人
制度の大改革は行政の変革を誘い、行政の変革は官僚の思考変化をもたらす。
このビッグチャンスを狙い弥太郎は、土佐藩に対して、土地を筆頭に艦船、機械、設備などの払い下げを願い出て成功し、とうとう自分の会社、三菱財閥の原点ともいえる、“三川商会”を設立したのである。
官営(国営)というのは、親方日の丸意識のため、効率が悪いのは昔からの悪弊だ。
官営企業の行き詰まりについては、浅野総一郎が払い下げに成功したセメント工場も同じだった。
とてつもなく大きな資金は、日頃からの“約定返済厳守の借金戦術”がモノを言い、銀行が大金を貸してくれた。
経営戦略ではよく、“着眼大局着手小局”とよく言われるが、これに照らせば、弥太郎の打った対銀行戦略はまさに、“着眼大局着手小局”を彷彿とさせるものだった。
岩崎弥太郎こそ、“稀代なる知恵者”として、その名を残すことになった。
その弥太郎は、1834年(天保5年)、いまの高知県安芸市(安芸郡)で生まれた。
母の美和が、弥太郎のことを評した言葉は次のとおりである。
「生まれし時より夜昼となく泣き立てて、まことに荒々しき人なり」