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「休みたいなら辞めろ」発言は言語道断! 連合会長、日本電産社長を批判

社会的責任の比較的軽いオーナーが言いそうな発言である。経営者としては、安全配慮しないとエラいことになるので会社と社会の中で「挟まれる」という厄介な要らぬ発想であろう。
問題は、オーナー的発想で事業してしまう経営者への影響度である。会社は円滑に行かず、労働基準監督署は徒に忙しくなるだけの話である。

この発言に関しては、日本電産社HPには「言っていない」と書いてある。実態はまったく知りませんが、普通の会社ができていないことを積極的にしておられる。そういう会社だからこそ、敢えて「休みたいなら辞めろ」とまで言えるとも受け取れる。極論しても実態に影響なしとして。

結局、この発想について色々な批判等が湧いているが、それぞれの環境でモノを言っているにすぎない。労働基準法違反等で是正勧告や刑罰を受ける会社もあれば、日本電産社のように(たぶん)そのような心配のない会社もある。ただ、それだけのことである。
しかしながら、このように議論渦巻くものであることから、現代の社会的テーマだといえる。
08年04月28日 | Category: General
Posted by: roumushi
毎日新聞 2008年4月21日 東京朝刊

年金の支払通知書には、介護保険料と新たに後期高齢者保険料の控除がなされ、社会保険事務所に不平を漏らす来所が相次いでいる。この制度は25年前に問題提起されていたものとのこと。昭和の一時期には、老人医療費が無料というときもあったかと記憶しているが、先送り体質(選挙対策など)のツケがとうとう私たちに回ってきたとみるべきだろう。


≪高齢化社会に合わせ、医療費を抑制する行政の萌芽(ほうが)は1983年、社会保険旬報に載った当時の厚生省保険局長・吉村仁の論文「医療費亡国論」に見えるという。いま世間を騒がせている新制度の直接の出発点は98年の医療保険福祉審議会・制度企画部会の意見書であり、これをベースに02年12月、厚生労働省が公表したA、B両論併記の改革試案である。≫

B論が成立した独立型保険制度であり、A論は独立させないで各保険者支援型保険制度である。

≪相対的に高齢者が多い国保と政管健保は助かるが、健保組合と公務員は一方的に失う。割を食う側が猛反発し、日本医師会も「非現実的だ」と批判して葬られた。
 代わって選ばれたB案が、いまボコボコたたかれている新制度だ。75歳以上の国民をひとくくりにして別枠に移し、保険料で1割負担を求める。世代間の連帯を重視する公的保険の精神にもとるが、国民皆保険の骨格は残る。圧力団体の抵抗が少なく、政治的に進めやすいと判断したのだろう≫

ここが肝心で、今「姥捨てだ」とか批難を浴びたとしても修正がなされないのもこのためである。「政治的に進めやすい」かどうかという、旧来の日本の政治手法が守られている。

≪厚労省案を伝える02年12月17日毎日新聞夕刊の見出しは1面左端4段抜き。閣議決定を伝える03年3月28日夕刊は1面下4段。83年の老人保健法施行以来四半世紀ぶりの大改革にしては地味だが、理由は明確だ。イラク戦争である。3月20日の開戦をはさみ、メディアはイラク報道一色だった。≫

ここも肝心。国民生活に大きな影響を与える大改革だが、国民の関心事にならない。他の事件があれば、マスコミも後回し。数年住めばわかるが日本文化は単眼である。したがって、年金記録問題もそうだが、こういう無関心だったことが一度強い関心事として持ち上がると、「もう遅い、後の祭り」ということが多い。年金記録問題は大予算を組んでの取り組みをしなければならないハメとなり、何とか取り戻している状態。

《07年参院選惨敗であわてた与党は08年改革の見直しを決めた。公費1500億円を投じ、最初の1年間、窓口負担や保険料の一部を政府が肩代わりするというのだが、複雑な話がますますややこしくなった。必要な後始末は泥縄式の小細工ではない。改革の基本について国民の理解を深め、必要な修正を加えて納得を引き出すことだ。が、与党は言い訳がましく、厚労省には気迫がない。野党は混乱に乗じ、メディアは混乱の表面しか見ない。攻守とも大局観を取り戻さねば、不安の連鎖を断ち切れない。》

必要十分な国民の関心と議論そしてコンセンサスを欠落させながら法施行するため、「箱を開けてみれば」の連続である。大局があれば上意下達で納得させる努力を続けることも我慢できるが、大局なしの泥縄策ではますます国内のフラストレーションは高まる。平成の「米騒動」も発生するのではないかとキナ臭い感じもする。
08年04月23日 | Category: General
Posted by: roumushi
その要因は沢山挙げられる。

戦前は配給制度と相俟って、統制会により産業を、隣組により銃後国民(市民)を、国が管理できた。戦後、こうした管理を取っ払ったため、大正時代の頃に戻った。大正時代は、資本主義と戦争景気による自由な気風と国際的情況の不安から来る国家主義とが拮抗し先鋭化した時代である。いずれにせよ、米穀通帳が年金手帳に代わっただけなら今日の(「浮いた」「消えた」)記録問題はありえないものだが、強力な管理を取っ払っており、また弛緩したものであったがために現状の結果となった。自由という形態はやはり管理の放棄を意味するものであるが、この課題について、日本では(利益がないため)議論することを先送りしすぎていた。これが今、どうしようもなくなっている。

厚生労働省の業務は、国民の生活のあらゆる部面にかかわっている。国民一人ひとりを管理する業務は他の省にはない。強力な管理を取っ払った戦後の管理姿勢で、個々の国民の詳細まで把握することは無理だといわなければならない。国民はバブル現象も含めて多様化し、厚生労働省の法案は玉虫色のものが多いと安易に考えればそのようにいえるだろう。

肝心なのは、法律自体よりもその適用に多くの課題がある。国民の生活のあらゆる部面にかかわっているにもかかわらず、厚生労働省が独り相撲をしているかのような呈をなしているため、今回の年金騒動のように国民的話題にでもならなければ、なかなか浸透するものではない。浸透しにくいものの適用をするには無理がある。「不作為」が見え隠れする原因がコレである。法律と国民との関係がなさすぎで、後期高齢者保険の問題がここに帰着する。国会議員もまた国民との関係はなさすぎる。「霞ヶ関」にせよ「永田町」にせよ、このように言われている限りは独り相撲なのである。戦前のように統制経済体制が敷けるものではないから、日本組織はその脆弱性を直す時機にあるということである。

「浮いた」「消えた」問題は、 年金記録だけではない。
労働法規遵守もまた、「浮いた」問題である。
そのひとつとして、労災隠しがあり、依然として浮いたままである。

労災:5万件超が「漏れ」 厚労省実態把握へ 06年度

毎日新聞では労災隠しチームがあったかと記憶しているが、結構この浮いた労働法規について力を入れている。

≪労災隠しは、事業主が無災害記録の更新や事業受注の継続などを図るため、事故を隠すなどして行われるとされる。≫

≪こうした労災隠しについて、労働基準監督署は悪質なケースを労働安全衛生法違反で送検。その件数は90年に31件だったのが、06年は138件にまで増えている。≫

≪健保の申請を受ける側の社会保険庁は膨大なレセプトの中から、健保の対象とはならない労災や交通事故などを探すが、こうした調査の結果、労災だったとされた請求は06年度で5万471件(15億4000万円分)にも上っていた。≫

≪事業主が請求を抑止していることが疑われたり、重大、悪質な法律違反、虚偽報告がされている場合は、事業主に適切な指導、監督を実施。労災隠しが確認されれば、刑事処分も含め厳正に対処するとしている。


医師倫理の問題や初期的な発想(意味も無く、労災隠しすれば会社は安泰と考えていること)の問題など、これらも日本組織の脆弱性を維持する要因である。これについても労働局、労働基準監督署単位の独り相撲となると続かない。
年金記録問題と異なり、まだ国民的関心事にはなっていない。つまり、バックアップが脆弱である。
08年04月16日 | Category: General
Posted by: roumushi
民主党が厚生労働大臣の問責問題につき、矛を緩め始めた。当然と言えば、当然である。この通り行けば、着任する大臣は日替わりになる。やはりどこかおかしいと気付くはずである。
また、民主党は年金問題にて国民の歓迎を受けたが、国民は大臣の問責問題など要らぬ話であり、政党間の鍔迫り合いは寧ろ歓迎しない。そうなると、国会議員(政府含む)という存在がまた歓迎しにくいものに変ずる。
国会議員のホンネとしては、「私たちが議題としているような内容については国民は考えなくてよい」というものがあるようで、「船頭多くして船山に登る」という諺を意味する。どっちみち国民は法律の制定に参与しない(白紙委任状態)のだからその通りで、また効率も良いが、この良し悪しは別として、これが日本組織の脆弱性の原因であり、今日その現実化がまざまざと社会問題化しているものである。

<長寿医療制度>あて先不明などの保険証

国会議員(政策企画)と行政(実務)とが全然上手くいっていないことがわかる。さらに、国民の出足も重く、遅い。この問題解消には、戦前のような挙国体制が必要であるが、あれをあのまま実現するわけにはいかない。よく研究し、よく批判し、トータルとして今日の社会規範に適合するようにしなければならない。
いずれにしても、このままでは、このままなのである。尤も、緊急事態ではゴリ押しがきく社会であり、またそのことによって多少変化が生ずるにせよ、それに慣れてしまっているのも良いとは思えない。
日本近代史を紐解けば、明治は反政府運動が主だが、大正期以降は政府と同じことを国民のなかで考える傾向が強く出てきた。単なる反政府でなく、政府の政策批判や日本組織自体の批判を行う者である。つまり船頭が増えてきたのである。今日ではマスコミがその代表格であろう。「国民主体」と憲法にあるが、その「国民」は抽象的存在でしかない。また、「組織票」で議員が決まるので(個々の国民にとっては)実質的に翼賛方式が続いている。議員の世襲制は当然の帰結である。統計分析で政策企画するリスクの高さを知らない。といって、マスコミの言う事ばかり聞くと面目が無いばかりか、さらに確信も持てない。これは将に、「管理職のジレンマ」と類似することがわかるだろう。日本組織の脆弱性ここに在り。
08年04月11日 | Category: General
Posted by: roumushi