≪『報道側だけに問題があるわけではない。テレビでみのもんた氏や古舘伊知郎氏が政府や役所を手厳しく追及し、怒っている姿を見て喝采しているだけの国民にも問題がある。こういう無責任な国民のありようは「観客型民主主義」と言えばわかりやすいだろうか』 さらに軽症者の救急車利用などの例を挙げ、
 『医療費を無駄にしているのは自分自身であるという視点が欠落してはいないか』
 『今の日本では、自分が汗をかくことによって日本が良くなる−という原則が忘れられてはいないか』、と述べます。
 そして対照的な例として、兵庫県のケースが紹介されます。これは母親たちが「県立柏原病院の小児科を守る会」を結成し、不急の受診を控えることで、地域の小児医療を大きく改善した例です。ここでは母親たちは従来の受身一方ではなく、当事者として行動しています。≫

舛添大臣の言っている内容がよくわかる。公と私との区別が日本では極端なのである。これを変革するには相当の根気が必要である。
また、この観客型民主主義批判は、近代の日本政治システムへの批判である。

阿倍首相に続き、福田首相もまた辞めた
しかし、国会議員自体は辞めない。首相職を辞めるなら国会議員も辞めなければならない。
そこで首相選になるのだが、報道などに接すると、自民党は多くの党員の意見を吸い上げることなく、老人政治によって首相を任意で決めるという。多くの党員がそんなやり方に反撥している姿があった。党員の言うことすら吸い上げない党がさらに遠い国民の声を聞く筈がない。嫌でも、観客型にならざるをえない。決められる首相の質ももはや疑わざるを
えなくなっており、自民党システムが多くの弊害の製造元のひとつであることはもはや疑うことはできない。
私は戦中政治システムを評価する者であるが、今はそのようなやり方とは逆の流れが主流であるから、悪い方にしか向かないといえる。次の首相もまた重圧で耐えられない可能性がある。観客型民主主義(私はこれを民主主義とは言わないが)を理論的にも現実的にも解消することに必死にならなければならない。
新たなシステムのイメージは誰も経験のないものである。ずっと日本では老人政治が続いていたのであるとわかる。国民がめいめい自分勝手に主張したら混乱するとかの反論は聞き飽きている。
近代における反主流派の研究が再認識され始めるだろう。占領直後はかなり盛んであったが、肝心の現在看過されている分野である。傘があるときに雨は降らず、ないときには雨が降るということか。