【時代を論ずるとか一手を講ずるとか、の場合に必要な基礎情報として。】

(前説)
《○山崎部会長代理 まさに、今の議論なんですが、法律は非常によくできているんです。だけれども、運用との間にかなり幅があるわけですけれども、国民年金創設以来の歴史をずっと見ておりますと、国民年金を拠出制年金として、しかも20歳から60歳まで強制適用という形で仕組むことについては、非常に抵抗があったわけですね。当時、昭和34年に法律ができまして、準備をしたのが35年で、ちょうど安保の年でございますから、まさに再軍備の資金に使われるのではないかということで、まさに確信的に入らない人もいたし、そのような運動をした人たちもいたわけでございますけれども、そういう中で、建前は強制だけれども、実際の運用はいろんな広報、啓発をして、十分に御理解をいただいた上で加入し、自主的に保険料を納付していただくという時代がずっと続いたわけでございます。ですから、それは善政だったんです。強制適用をして取り立てることはしないということですね。ですから、自主加入、自主納付という言葉はよく聞きました。
 したがって、二十歳になっても届けがない限りは加入者ではない、被保険者であっても加入者ではないと、したがって資格期間にも年金の額にも反映しないということでありますね。》
(2011年4月11日 第2回社会保障審議会第3号被保険者不整合記録問題対策特別部会議事録 http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001blbd.html) より

強制適用であるにもかかわらず、なぜ申請加入なのかについて、これほど理解でき
た説明はない。時代も過ぎ、もはや実際の運用がどうであったかについて記憶する者
はほぼ皆無になっている。
ついでに、国民年金施行にあたっての運動について―
《1 社会保障推進協議会 全国で20数県に結成。全建総連・全日自 労などで反対共闘会議。安保反対とともに大きな運動
2 成果=死亡一時金・65歳前でも繰り上げ減額年金支給・加入や 差し押さえなどの強行手段を取らない・年金福祉事業団の創設、 積立金の還元融資 》
(「年金制度とたたかいの歴史」http://www.cpi-media.co.jp/zenhoumu/shiryou/nenkin/kiji/rekisi.htm)

テキスト等には「昭和36年4月1日 拠出制の国民年金施行」としか残らない。
国民年金の話だけではなく、あらゆる面についても、建前は残り、実態は記憶にさえ留まるのは稀である。「本音と建前」というものの、「本音」というものは(そうしたかったのだが)という述懐調にすぎず、実態は「建前」がそれも歪みながらそのまま時間を経てきたものである。したがって、歪みこそ復元することが親切である。
 (「暗い谷間」の時代)
① 日本の後進資本主義体制
・低い重工業生産力 ・欠乏した原料資源  
の事情で、自主的な国防を整備するためには、低コストの商品による海外市場の略取、それによる外貨で必要な軍需品や資材をまかなうしかなく、その唯一の手段が低い労賃コスト(長時間労働含む)であった。したがって、低賃金生産は、同時に日本の国防の安全を保証することを意味していた。

② イギリスとの比較
・産業の発展や資本の蓄積につれて、労働条件は緩和され、賃金水準は上がり、労働時間は短縮される。女子・年少者の保護、児童労働の禁止、工場設備、労働者住宅の改善、窮迫者への国家救済。
・1802年― 「徒弟の道徳並びに健康に関する法律」(世界初の労働保護法)
・1847年― 十時間労働法
* 1824年― 団結禁止措置の廃棄
工場法は守られなかったし、その存在を知らない雇い主も少なくなかったが、《人間労働力に対する非合理的な消耗と、道徳的頽廃とに対して、産業社会全体が何らかの対抗策を講じなければならなくなってきていることを物語っていた。》
《だから、イギリスにおける工場法は、いっさいの道義的観点から離れて、純粋な産業的綱領に基づいて作り上げられ、改善の途をたどったと考えてよいのである。》
《工場立法の改正、労働賃金の引き上げ、労働者住宅の建設、社会保険の整備等は、すべてイギリスの厖大な植民地特別利潤の一部をさいて賄われたものであった。》

・『日本の下層社会』(明治32年/横山源之助) 『職工事情』(明治36年/農商務省)等によって日本の労働者の過酷な状態は明らかであった。工場法案のための調査が心ある官僚により始められたのが明治15年頃にもかかわらず、工場法成立はようやく明治44年になってのことであった。それも「骨抜き」のかたちで成立。30年間もの間費やした事情は経営者の無理解等もさることながら、労働コスト増加による国際競争力の減殺が予想されたからであった。一方、すでに労働力の食いつぶしが明らかとなり、同時に女工の結核が帰郷とともに農村にまで蔓延していき、労働者の獲得が次第に困難になり始めていた。→『女工哀史』(大正15年/細井和喜蔵)

・明治32年の日清戦争勝利で日本経済は未曾有の躍進を遂げたが、
《日本の場合には、逆に、資本主義産業の発展にともなって、というよりは、その発展のための基盤なり土壌なり条件として、いよいよこの種の事態は固定化されなければならなかったし、日本経済が外に向って発展すればするほど、それはその苛烈な内容をさらに一段と強化しなければならなかったのである。》

(「与えられた自由」の下に)
いよいよ戦後に入るが、その前に産業報国活動について触れる。
・労働者の自主性は存在せず、よって能率の増進もなく、苛烈な労働は変わりなく、長期の経済をまかなう組織としては役にたたなかった。
・憲兵や特高警察では労働者組織を創り出せないことを証明した。
《終戦が近づくにつれて、産報の無力はいよいよ露呈され、産報組織の有る無しに拘わらず、労働者の自主的な行動の必要が砲弾と空襲の下で、自生的に感得されていた(略)ここに、戦後における労働組合運動の急速な回復とその躍進との内的なつながりを見出すことができる。》

・特高警察、治安維持法の重圧が取り除かれ、右翼団体、戦争協力者は追放され、軍隊は解散、…
・労働組合法(昭和21年3月施行)。それをまたずに、労働組合は主要企業体内部に自然発生的に結成されていった。
・総同盟(昭和21年8月/85万5千) 右派代表
・産別会議((昭和21年8月/163万1千) 左派代表
・日労会議((昭和21年10月/30万) 中立?

・他に、中立的全国組合として、旧財閥や巨大企業を中心として結成された企業別組合又は資本系統別連合体があり、これらは当初全労働組合員の2分の1近くを包含していた。
・原則として、単位組合は企業別、経営別に組織された。
・昭和24年6月 組合員数660万余 組合数3万4千余 推定組織率55.7%
・当初は明るい開放感にあったが、インフレによる家計窮乏がそれを払拭した。
・政府の経済政策全体に対する不信、戦前の抑圧的労働政策、混乱した配給制度と無能な食料政策、大企業の資材隠匿・横流しによる厖大な不労所得等による、昭和21年5月食料メーデー。《これは労働組合だけの運動ではなく、政府の食料政策に対する広汎な市民や主婦たちをまじえた国民的プロテストであった》。
・当時は賃金増額要求がほとんどで、賃金水準の低さが誰の眼にも明らかなのと経営者が明確な見識と対策を持ち合わせていなかったことから要求が多く通った。

*京成電鉄労働組合は、株主総会に対して、団体交渉権、経営協議会への参加、8時間制などの要求とともに「本給五倍即時値上げ」を要求し、「右要求無条件にて受理不能なるときは飽くまで労働組合に於て事業の一切の経営を管理するものなり」と宣言した。(戦争終了直後の組合の要求、争議手段、労使の力のバランスを物語る代表的なもの)
「賃金の大幅一括引き上げ」「団体交渉権の承認」*「生産管理」「業務管理」「ストの結果としての組合側の要求の前面貫徹」。
* 生産管理もしくは業務管理
・変則的なものだが、敗戦直後における経営の実態や経営者の態度に呼応
「経営者が自己の経営を把握できていない、将来の見通しももたず、敗戦の空虚の中に茫然と椅子に腰掛けていた」ため、組合側の要求に対して説得できず、自信もなく、打つべき手もなかった。「組合側は、賃上げの条件を、自分たちの実力と工夫で、創り出していくための最後の手段として、自ら経営を把握し、その生産や業務を、組合員の手で運営することによって、はじめて待遇改善要求もまたみたされ得ると考えたのも、或る程度まで、自然な感情であったろう。」

・「日本の労働組合の場合には、たんに現場の作業員だけが組合員だったのでなく、監督的地位の労働者や技師や職員や、また職制の一部、すなわち本来経営補助者であるはずの人々までが、広く組合に参加しており、「混合組合」的形態の組合をつくり上げていたのであるから、そうでない場合に比較するなら、経営の実態やその利潤の「秘密の匣」の中身を知ることはきわめて容易」であった。
→昭和21年2月 内務・司法・厚生・商工の四相共同声明「暴行、脅迫、所有権侵害権等の違法行為を断固取り締まる」
・かような「正論」が通用する、安定した国民経済、労使関係でなかったことはもちろんであるが、労働組合が資本主義的な経営に直接触れたという事実は社会的に重要な意味を持つ。

③ 占領政策としての労働組合 -初期
・日本の軍事力の破壊、軍国主義的日本の再興の可能性を奪い去る=「民主化」
「労働組合の育成とその保護」(全体主義的国家としての再建の妨げとして)
→財閥の台頭を抑え、官僚閥の発言権を弱める。《占領軍当局が労働組合に好意を持ったのは、ただその限りにおいてである。》
→事実において、労働組合は奨励され、その設立や活動が保護された。「戦時中、日本の軍国主義的権力によって逮捕され、投獄されていた日本共産党の指導者たちを釈放するだけの雅量を示した。」
*インフレ、食糧危機、生活難、戦前の弾圧立法の除去だけでは、戦後の労働組合の躍進的な活動を説明できない。むしろ、占領施策が、自生的には機の熟していた日本の労働運動に対して、どのような態度をとったかがすべてを左右した。
《戦争中、産業報国運動が、たちまちの間に全国の工場や鉱山や事務所に扶植されて、労働者や職員のほとんど100%までが、経営者もろとも、一つの天下り機構の中に有無をいわさず組織されてしまったということは、憲兵や特高警察の力をもって強行されたことだったとはいえ、しかもなおその場合、権力の発言に対して抵抗力の微弱な日本の大衆の性格が遺憾なく発揮されていた。もし日本の労働者が、明治以来数十年にわたって組合活動の実績をもっていたとするなら、昭和十五年に大日本産業報国会が上から組織されようとしたときに、なぜもっと強烈なプロテストがなされえなかったのであろうか。財閥の統制力の強烈な時代には財閥万能の態度がとられ、官僚が発言権をもった時代には官僚万能の考え方に変り、そして軍閥や特高警察が労働者の生死を支配するようになると、ドイツを真似た産業組織を日本に最も適合した労働者組織だとあえて信じこむようになった点に、日本の労働階級の中にひそむ一種の脆さをわれわれは見出すことができる。》
《時の権力に弱いという日本人の事大思想は、労働階級の場合にも、不幸にして、色濃くあらわれているこれは、日本における、真の意味での自由主義時代の欠如と個人個人の民主的訓練の未熟と、その開花期の短期であったことによるものであろうが、短い自由民権運動の時代に引きつづいて、日清戦争前後から、すぐさま国家主義思想の強烈な支配力が国民生活全体に及んだ日本の場合には、労働階級の思想や行動の自主的な原則はできあがらないままに押し流されてしまうのである。》
《このようにして、敗戦直後には、占領軍の意向や判断が日本の労働者の行動の基準のようなものになっていた。占領政策が左に向けば、すべてのものはそれに従った。そして労働組合の育成が占領政策の方針だということが判るとその目的がどこにあるかにかかわらず、労働組合は、いわば「天下御免」のものだということになり、それに積極的に参加することは、一種の身の安全すら保証することであった。》
・時流によるもの 公認のもの 安全な生活態度 賢明な進退 保身の術

*『昭和経済史』(日経新書) ―GHQによる労働の民主化
・占領軍用労務の円滑な供給を確保するため 賃金上昇→商品価格上昇→国際競争力低下
・対日労働政策は昭和19年頃から作成準備

④ 電産労組型賃金 昭和21年12月 「十月闘争」
・総同盟と産別は次第に共同戦線を張るようになっていき、それまでの賃金の大幅要求や一時的な飢餓突破資金要求から、合理的な最低賃金制度への要求が闘争の根幹に据えられた。この点において、敗戦後のストは、ようやくその合理的な要求の軌道を見つけ出し、納得的な根拠を社会に提示できる段階になったといえる。
*闘争の中心勢力をなしていた電気産業労働組合の賃金要求、いわゆる電産型賃金体系は、その後久しい間、日本の労働運動にとっての共通の旗幟として、それに科学的根拠を提供したものであった。これは一面で、生計費算定を基礎とする最低賃金制度の要求を含むと同時に、他面では、安定した賃金体系の確立を目指して、基本給的部分の比重の増加と、浮動的で不安定な手当給的部分を基準賃金の枠外に出し、そのウェイトの縮小を企図したものであった。
・生計費を基準とした合理的賃金体系と最低賃金の要求は、かなり水準の高いものであったが、争議は組合の勝利に終わった。 
 ところで、現在の感覚ではよくわからないが、この「十月闘争」の相手方は政府である。政府は大量馘首とインフレ対策としての低賃金政策を強行しようとしたが、事後措置の準備もない無謀な政策であることなどから、世論もまた組合を支持し、組合の勝利につながった模様である。

⑤ ゼネスト
・「十月闘争」の成功は、諸官庁における公務員関係および官業の組合を刺激した。
《もともと賃上げ要求が出発点であったが、この場合には、交渉の相手方が政府であったということ、そしてインフレ対策や食糧配給に曝露された政府の無策に対する一般国民の反発が組合の闘争に対する支援的な雰囲気を強めたということなどが背景になっていたために、闘争は単に産別系の左派組合だけにかぎられず、総同盟系の組合や強大な「中立」組合までが、広く参加していた。さらにまた、官公庁関係の労働組合が全官公庁共同闘争委員会を結成、これが運動の中核になったばかりでなく、その外郭に、社会党その他野党を中心として全国労働組合懇親会が出来上り、倒閣を目的とする大規模な示威運動が進みつつあった。》
・階級連帯の思想の効果を体験した
・企業別の単位組合の孤立状態を打ち砕くためには、広汎な労働組合の共同闘争が必要だと痛感した
 こうした背景と自信により、全官公庁共同闘争委員会は、民間のように最低賃金の制度の確立を含む諸要求を提出した。 昭和21年11月
1「越年資金の支給」2「最低賃金制の確立」3「棒給諸手当の現金支給」4「勤労所得税の撤廃」5「総合所得税の免税点三万円への引上げ」6「労働関係調整法の撤廃」7「差別待遇の撤廃」8「団体協約即時締結」9「寒冷地手当の支給」10「不当馘首反対」
 昭和22年1月、この要求はほとんど容れられなかったのみか、吉田首相が一部の過激労組員を指して言った言葉「不逞の輩」が組合を強く刺激した。
 共闘委員会は、2月1日全国一斉にゼネスト突入宣言を発表した。

前日、空前の高潮に達し、革命前夜の雰囲気が全国にみなぎった。中労委のあっせんも効なく、政府もいかんともしえない重大事態となった。
*マッカーサーの組合指導者に対する通告
・困窮している日本下で、致命的な社会的武器行使を許容しない。
・公共の福祉に対する致命的衝撃を未然に防止するため介入するもの。ゼネストは輸送及び通信を崩壊させるもので、国民の必要とする食糧輸送を阻み、産業活動を停止させるものである。米国国民は今なお、その少ない食料資源から多量の食料を日本人に放出している。ゼネストに関係している少数の人々は、ついこの間、日本を戦争の破壊に導いた少数派のもたらしたものと同様の災禍の中へ大多数の人々を投げ込むかも知れない。 
 日本の運命としてこのまま打ち捨てるか、それとも連合国民にさらに日本人のための物資を負担させるべきかと考えると、いずれも難しいため、非常手段として通告の措置をとった。既に与えられた自由を制限する意志は全くない。今回の問題は、日本が現在の悲境から立ち上がるにつれ、自然に解決される問題であろう。
→官公業の労働基本権の制限 省略

(日本的なるもの)
⑥ 脆さ 
・敗戦確定後まだ1年もたたないうちに、組合数12,006、組合員数3,679,971人、推定組織率はすでに40%。この数字は最盛時(23年6月~24年春)の半分強をすでに組織完了していたことを示す。
・24年以後急変し、55.7%から45.9%の急下降をみせる。「後退する劣勢な兵が、追い討ちして包囲する優勢な敵の攻撃に精神的に耐えかねて、ある朝突然塹壕から飛び出して敵弾に斃れるのと似ている。」→労働組合的な日常組織と結びついていない運動の脆さ。停滞→分裂→少数化→急進化→憤死

⑦ 企業別組合
《本来労働組合という大衆組織は、個々の企業なり資本なりの枠を超えるところにその特徴をもっているはずである。資本の強力に対抗する労働者のただ一つの武器は、彼等が横断的に団結して、その数の圧力によって資本の力に対抗することであり、それによって、雇い主に対するバーゲニングパワーを獲得することである。》
・しかし、それは一見「御用組合」や黄色組合のようにみえるが、時には強く、時には弱いといえる。その形態だけみて、弱体とみることは事実に反する。むしろ、経営者側から政治的行き過ぎが目に余るほど、戦闘的で非妥協的であり、しかも一括加入の形で組合を結成していた事実は、経営者をして経営権を防衛しなければならないと思わせるほどの脅威であった。
・企業別組合はほとんど従業員全員組織である。したがって「従業員組合」という名称が妥当である。現場作業員、経営補助員、事務員ら工・職一本の混合形態。
→戦後直後の生活の困難さに差がない。共同による交渉力の強化。

⑧ 名ばかり管理職?
《職員の中には、多くの場合、職制上当然に経営者側であるか、少なくとも対外的には、経営者側の利害を代表しなければならないはずの人々までもが、組合員であるという、一見したところ奇異な事態を生み出してしまった。》
《少なくとも労働組合法の改正(24年)の時までは、部長や課長や係長までが組合員であった場合が多く、現場長、たとえば駅長、学校長、所長などの組合参加は、ごく一般的な現象であった。》
→生産管理
・アメリカの職員間にあるような昇進における自由競争がなく、また多くの管理職は真の経営者になる見込みはまず無い。したがって、彼らは生涯の従業員の身分である。
⑨ 労働市場の閉鎖的性質
・戦前の職工の賃金には全国相場が存在したとされるが、機械化により集められた女工については募集人によるもの、委託募集により、個々の企業と個々の農家によって、取引された。「横断的な労働市場はかくされてしまい、労働市場は、謂わば縦の直結関係に転化される。そこで、農村における旧い家族関係やそうした身分意識がそのまま工場の中にもちこまれるようになり、またこれに対応して経営者の家父長的態度が労務管理の基調をなすようになる。」
→近江絹糸・人権スト・『絹と明察』(三島由紀夫)


(一歩退却、二歩前進) 
⑩ 2.1スト後 陰化「姿なき組織活動」
・共産党員としての活動と組合員としての活動との二重焼きを産別会議が自己批判
・組織の大同団結 全国労働組合連絡協議会(22年3月)
*経営者側の大同団結 経営者団体連合会(22年5月)
・ゼネストから地域闘争へ―家族ぐるみ、町ぐるみ→地労委提訴戦術、職場離脱戦術、1人1要求「五月雨戦術」→闘争ルールがなく、世論の支持を得られなかった。


(後退論)
⑪ インフレ抑制 24年3月
・経済9原則→ドッジプラン。日本の労働運動の方向転換。
《組合活動の出発当初から、アメリカやイギリスの労働組合とは似ても似つかぬものが出来上り、(略)占領軍からみると、まことに意外であり、好ましくない運動なのであった。》・組合内部の民主化・自主的な活動へと転換しようとした
《日本の労働組合は、アメリカやイギリスのような形で成長する経済的基盤がなく、(略)政治的に行動することによって労働組合らしい機能をつくすことができ、組織労働者だけの利益の保全のための活動体として止まることができず、広く組織外の民衆と結びつきその人々の利害をも代表しなければ労働組合として立ち行かない、という点は、ほとんど理解されていなかった。》
《日本では、労働組合というような西洋社会の組織よりも、民衆組合といったようなものがむしろ必要になってきたのである。》
《占領政策は、アメリカのパターンに合致するように労働法制の修正を日本政府に行わしめ、それに合った労働教育の指導を行うのであるが、現実の日本の組織運動は、いよいよ、まことに皮肉にも、それから遠ざかるばかりであった。》
→労働組合の低迷、衰退
*実態を観点に据えていない理念的法体系下の日本社会 乖離する労働市場
→圧力としての「法的措置」 和解的解決法「あっせん」 ……
⑫ ドラスティックな企業整備と人員整理
「賃金三原則」(23年11月)
1、賃金引上げのための価格引き上げを行わない。
2、赤字融資を行わない。
3、補助金支出を行わない。
《昭和24年は、民間企業といわず国家企業といわず、大量馘首と人員整理に明け暮れた。》
*組合の敗退 - 企業別組合の脆さ
《いったん馘首が具体的に発表されてしまうと、誰もが、自分の首をなでて「俺でなかった」ことを内心よろこぶのであるから、企業別組合のように、組合員全体が、首をきられた者ときられなかった者とに二分されることになれば、それぞれの立場や利害から、組合は、昨日までの「馘首絶対反対」の旗幟を同じ雰囲気で掲げえなくなり、組合員の意識の中に分裂や混乱がおこりはじめる。》
《その上、大企業の場合でも、賃金の欠配や遅配が一般的であったから、ある程度の額の退職金は、誰にとっても少なからぬ魅力であったし、そうした点からの結束のくずれがあちらこちらに現れはじめる。》
《またこの時期の人員整理は、多くの企業体で、組合活動の積極的指導者や左派指導者を馘首のリストにのせたため、馘首反対闘争において最も活発に働かなければならない組合の指導者たち自身が、馘首の当の対象だということになれば、自分の首をつなぎとめようがために組合員全体を引きまわし利用している、という風に誤解する者も現れる。そしてこれは「馘首絶対反対」にいわば水をかける最も有効な感情なのであった。》

→騒擾事件多発→下山・三鷹・松川事件
*真相はいまだ不明だが、激化しつつあった運動に急ブレーキをかけることになった。
また、この時期の組合の騒擾的性格は、組合運動と暗い陰謀や事件との関係を世間に意識させるに足りるものであった。
→産別の分裂
「共産党細胞の影響を組合内部から除かなければいけないという意向が強くなり、(略)やがて二十三年に入り、産別会議内部における産別会議民主化同盟の発足となって具体化した。左派連合体たる産別の内部に民主化同盟、いわゆる「産別民同」が結成されたという点に重要性があった。」
《われわれの運動はいわゆる反共ではない。産別会議の全組織を民主化するために闘うとともに、一切の自由な組合として一大陣列に結集し真の民主的統一戦線の実現へ巨大な一歩を踏み出すものだ。》(産別民同声明書)



(「何を為すべきか」)
・朝鮮特需は軍需工場等一部の労働者の需要を増大させたが、一般労働市場はかえって停滞を示していた。
・単独講和や安保条約の後、日本の労働組合は明確に闘争の相手方としてアメリカを意識し始めた。
《従属経済なり「基地経済」に対する、広汎な民衆的反抗という点に、朝鮮動乱後における労働組合活動の特徴がひそんでいることは確かである。》


(その後に来るもの)  陽の当らない労働者 斜陽産業 消費文化 
・労働組合とは何か、それは何をする団体なのか。
→ヤミ給与問題
→官公業、大企業労組員と中小労組員の生活水準格差(植民地構造)
→石炭企業 鉄道産業 三井三池スト

・経済自由化、貿易摩擦、多国籍化、為替戦争・資源戦争
・団結しない国民 
......................................................................................................................................
私流の概括
○ 何のための組合かとあまり考えずに戦後の労働組合は組合数、組合員数を急速に増やした。
○ 占領軍は、自主的な組合を想定していたが、実際には戦前の流れがほぼそのまま受け継がれた。(政治主義と組合主義そしてその分裂)
○ 敗戦直後からその後昭和40年代くらいまでは、労働組合運動は同時に国民運動の性格を持っていた。(ベースの共有)
○ 戦後初期の要求のメインは生産管理であり、管理監督者の線引きが明確でなかったことから、かなり有効な手段であった。
○ 占領軍は、労働法改正に適宜介入したが、労働市場の影響は鈍かった。→法律は、「必要なとき持ち出すもの」という常識が定着。

○ 高度成長、バブル崩壊その他経済等諸変動を経ているが、日本労働市場の基調はこの昭和35年頃でほぼ固定しているように思われる。