人間関係や労使関係において、トラブルの原因というものはだいたいあらかじめ想定しうる。あまりシリアスなものが作られなくなったためイメージとしてある、所謂「ドラマ」によく出てくる類である。

ただ、ほとんど主題化されていないテーマがある。それは日頃感じつつも、作品として形象化されていないものである。作品は無数にあるから存在するのかも知れないが、私はまだ知らない。

似たものとして「全体」と「個」のテーマがある。これは全体主義とか戦時中のテーマとして有名である。
(厳密に言葉の定義としては、「全体」を100とするなら、「個」は100-99の答えなのだが、実際に通用している見解は「100」と「1」の対比である。)

これを変形したテーマが、「体系」と「自己」である。これがトラブルの原因だというものである。

職場の体系において、「個」はどこかに位置づけられている。これはよい。正当な状態である。職場において人事体系については法律では定めていないが、組織運営上誰もが必要と認めるところだある。仔細は個別任意定義に因る。
家族の体系において、「個」はどこかに位置づけられている。これもまぁ同様である。国際的に見ると、それぞれの事情においてだいたい存在する。日本の場合、戦後の「家庭内暴力」の時期が大きく事情を変えたものである。それまではそれほど「個」の存在感がなかったもので、自己や個人としての成長を伸ばす主張を底辺に漂わせた、社会国家的規模にまで高まった暴力的な現象であった。また私は仄聞するだけだが、「中ピ連」運動なる女性運動もあった。

配偶者、父、母、子、祖父、祖母、孫、兄、弟、姉、妹、男、女。これらは要するに「体系」の用語である。「個」としてはこういったもののどれかに該当するものである。「記号」という社会科学的な言い方もある。そしてこれらは「体系」のなかで、それなりの意味をもたされている。「家庭内暴力」「中ピ連」はこうした「体系」での意味を拒絶したものと考える。体系そのものを拒絶したとは考えられないので、やはりその意味、カラーへの拒絶反応であろう。

トラブルの原因そのものの解消は不可能である。「体系」そのものが消滅することはまず考えられない。その意味付けをどう考えるかである。少なくとも、トラブルの解決法として、その意味付けがどのようになっていたかを調べることは欠かせないことなのである。