『7 証拠と裁判形式』

《犯罪が罰せられるについては、確実性が必要である。》
としながらも、ベッカリーアは「心証形成」を支持する。

《なぜなら正常な感覚を持った人間が、行動の必要性から来る人間の一種の習性、頭の中で考えるすべてのりくつにさきだって人間を支配するあの習性によって、ある結論に達したとき、その「蓋然性」は確実性とみなされてさしつかえないものなのだから。
だから、一人の容疑者を犯人と断定するために必要な確実性は、すべての人に日常、彼らにとって大切なことを決意させるあの同じ確実性にほかならない。》

翻訳としては最悪のようにも思われるが、昔の人はすっと内容が入ってきたのかも知れない。ちなみに初版は昭和13年である。いずれにせよ、手にするだけでありがたかったに違いないが。

《証拠はこれを二つの種類にわけることができる。完全証拠と不完全証拠である。》

完全証拠とはそれ一つでも刑が宣告できるものとし、不完全証拠はそれでけでは不十分で他の幾つかの不完全証拠によって無罪の可能性を排除していくものとされる。
《なお、不完全証拠については、もし被告がほんとうにむじつであるなら、その証拠に対抗してむじつを主張する抗弁をもっているはずなのだから、なんら十分な答弁をすることができないばあいには、その不完全証拠は完全証拠となることをつけ加えたい。》

《しかし証拠のこの精神的無形の確実性は、これを定義づけるよりも、感覚で感じるほうが容易なものである。》
として、ベッカリーアはくじびきで自由に選ばれた陪審員制による彼らの直感を重視している。裁判官は、事実確認の役割に徹するものとしている。
《法律の知識が一つの「学」になっていない国はなんとしあわせなことだろう!》

どっかで覚えたが、裁判官は審議前にはまったく事件の内容は知らず、赤子同然の状態で臨むという。訴訟進行を速めるため、その通りかは不明だが、心証は審理にしたがって形成されることは守られていると考える。

《被告にとってうたがわしく思われる裁判官を忌避することができるということもひじょうに正義にかなったことだ。》
とし、もし忌避して有罪となれば、「みずから処罰を宣告したことになる」と書いている。

《裁判は公然でなければならない。犯罪の証拠もまた公然のものでなければならない。そうすれば、社会をつなぐ唯一のきずなである世論が裁判に関与する者達の暴力と欲望を封じるクツワとなるだろう。》