近聞遠見:党首選、これでいいのか=岩見隆夫

≪福田康夫首相は心中穏やかでないだろう。内閣改造で新陣容を整え、臨時国会に臨もうとしているのに、自民党の長老や幹部が、「次は麻生さん……」と福田の後継首相に麻生太郎幹事長を推す発言をあからさまにしているからだ。
 一方の民主党は来月の代表選で小沢一郎代表の3選が確実とみられているが、無投票がいい、選挙戦をやるべきだ、と党内の意見が割れている。
 麻生後継にしろ、小沢の無風3選にしろ、共通しているのはそういう流れをつくろうとして、多くの議員が日夜動いている点である。≫

≪<党首>は政党の最高権力者だから、そうした動きは生臭い権力争いの一環とみていい。
 だが、世間は関心を持っているものの、しょせん<永田町のざわめき>と傍観している。党首争いに参加する機会がないからだ。自民、民主両党の支持者も争いの圏外にいて、眺めているにすぎない。≫


同感である。日本政治が行き詰まるのも、国民が不満や不利益を解消できずにただ鬱積し続けているのも、ただこのシステムにある。司法部門においては、これを「裁判員制度」(残念ながら国民の反応は悪いが‥)で打開しようと進められている。行政部門(肝心の省庁はわからないが‥)においてはパートというかたち等で民間雇用が進んでいる。ひとり立法部門だけが「聖域」として取り残されている状態である。
このため、国会で決められた法律は、その運用面において国会議員はまったく関心を支払わない状態がずっと続いている。作りっぱなしという「ハコモノ」政治、しかもその結果は国民がやはり背負わなければならない。国民は不満を抱くも、どうしようもない、そして治安は崩れつつある。
ただ、心ある者がせっかく国会議員になっても何も変わらない。そうであればどうすることもできず、耐え難きを耐えるしかない。要因としては、国会議員は国会の中の自転運動だけで力を使い果たしてしまっているのであるから、他国に日本制度をヘルプしてもらうしかない。あるいは歴史的にその直前の、大勢翼賛システムに変更するしかない(尤も、これは派閥統治を妨げることはない。しかし、これは国民参加型の原型として考慮することができる)。
結論としては、年金問題と同じく、国民は民主主義について無関心すぎるということである。それは国民の、国民による、国民のための統治システムであって、日本国民は苦手とするところであり、かつ嫌がっているところさえ見受けられる。その反面、「年寄り政治」には反撥するものであるから、さらにどうしようもなくなっている。ただし、これは国家についてであって、民間の企業においては波はあるにしても、民主主義的な社風形成に成功しているところ(なお、このスタイルの企業の労働問題は司法的解決ができず、労務的に解決しなければならない。労使自治以外では解決できないため。裁判処理か、あっせん処理かの見極めが大事。労使紛争における経営構成的要素が多いなら、労働者参加型の自治系。)が多い。したがってやはり積み残された課題は、日本人の国家観は喪失したままでいいのかという戦後すぐのテーマの蒸し返しなのである。