『10 誘導尋問について』

《われわれの法律は誘導尋問を禁じている。誘導尋問とは、学者たちによれば、犯罪の構成要件そのものに関する尋問である。われわれの法律は、尋問が、犯罪の遂行された様態とその環境にかぎられることを要求する。
誘導尋問とは、いいかえれば、犯罪そのものに直接ふれる答を、被疑者から誘導する尋問である。刑法学者によれば、尋問は間接的にのみ犯罪事実そのものにおよぶことができ、決して直接的にこれにふれてはならないことになっている。
このような尋問方法が採用されている理由は、被疑者から自己救済になるような答弁を誘発することを避けるためであろう。あるいは、犯人がじぶんでじぶんを訴追するなどということがおこれば、それは自然に反するざんこくなことだと思われたのであろう。》
《しかし、そのいずれの動機からであろうと誘導尋問を禁じようというのであるかぎり、法律はいちじるしい自己むじゅんをおかしているのである。法律は同時に拷問を許しているが、このせめ苦より以上に誘導的な尋問はないのだから。》

拷問があった場合、その痛みに耐えかねて嘘の自白が行われることはドラマでよく観るところである。それを許しておいて、犯罪を犯したことについての直接的な尋問は禁止しているということはおかしいということである。また、ベッカリーアは拷問に耐える個人差で刑罰の有無が決まることになりなおおかしいと述べてある。

《さいごにもう一つ指摘しておきたい。適法な尋問を受けても、しつように答弁をこばむ者は法律によって規定された刑罰を科せられてよい。そしてその刑はもっとも重いものでよい。なぜなら、犯人が刑罰を受けることによって公衆に示さねばならないはずのみせしめを、黙否によってまぬがれさせてはならないからである。》

黙秘権という権利は不思議なものである。自己の不利益な供述は強制されないという説明だが、単純に考えれば犯罪を犯したと言っているものである。民事事件では原告の主張を認めたものとみなされる。したがって不利な状態であることはまちがいないが、疑わしきは罰せずとして、確定的な客観的証拠がなければ罰せられない。また、自白のみでも同様である。

《しかしこうした特別な刑罰も、被告がその訴追を受けている犯罪をおかしたことはうたがいの余地がないというばあいには、必要がなくなる。他の証拠によって犯人が有罪だということが証明されれば、自白も不必要であり、したがって拷問も不要になるから。
このさいごのばあいがむしろふつうである。なぜなら経験上、たいがいの刑事訴訟において、被告は犯罪事実を否認するものだから。》

懲戒処分の事項は具体的な違反行為が定められている一方、それにも増して多いのは包括的な違反行為である。企業秩序を乱したなどという規定は主観的に解釈され濫用されがちであり、その際該当対象者からの自白(謝罪・誓約)をもって処分に踏み切る契機にしていることが多いと思われるが、包括条項違反は文字どおり包括的な証明が処分者には求められると考える。