〔16 死刑について〕

労務管理に引き込むには無理がある題目であるが、一通り見ておく。
解説によれば、ベッカリーアが死刑制度廃止を唱えた先駆者ということであるが、素直には読めない。

《人間が同胞をぎゃく殺する「権利」を誰がいつたい与えることができたのか?この権利はたしかに主権と法律との基礎になっている権利とは別のものだ。》
《法律とは―略-個々人の意思の総体である総意を表示する。さてしかし、誰が彼の生命を奪う「権利」を他の人々に与えたいなどと思ったのであろうか?》
《もしこのようなことが肯定されるのだとすれば、このような原理と、自殺を禁じているいましめとをどうやって調和させるというのか?人間がみずからを殺す権利がないというのなら、その権利を他人に-たとえそれが社会であったとしても-ゆずり渡すことはできないはずだ。》

自殺の禁止ということとの整合性となると、素直に読めないのであるが、人類学としてみれば、なかなか興味深い論理である。
なお、法が社会の総体を示すという点についても社会契約説的な理論である。

《死刑はいかなる「権利」にももとづかないものである。死刑とは1人の国民に対して国家が、彼を亡ぼすことを必要あるいは有用と判断したときに布告する宣戦である。》

一方で、ベッカリーアは「権利」論に拘泥せず、「国家の通常の状態において」死刑は有用でないとし、無政府状態にあって公共の安全を侵害する存在に対しては、必要という判断を示している。
それに引き続き、死刑の非有用性を諄々と説き始める。

《死刑は社会を侵害するつもりでいる悪人どもをその侵害からいささかもさまたげなかった。》
《人間の精神にもっとも大きな効果を与えるのは刑罰の強度でなくてその継続性である。(略)犯罪へのクツワとしては、一人の悪人の死は力よわいものでしかなく、強くながつづきのする印象を与えるのは自由を拘束された人間が家畜となりさがり、彼がかつて社会に与えた損害を身をもってつぐなっているその姿である。》
《われわれの魂は、極度の苦痛であってもそれが一時的のものであれば比較的たえられる。むしろ、長い期間のたえまない不快にたえられないのである。》
《死刑が採用されている国では、一つみせしめを示そうとする毎に、一つのあらたな犯罪が必要になるわけだ。だが終身隷役刑はたった一人の犯罪人が、国民の前にいつまでもくりかえしてみせしめの役をつとめる。》

このあたりはいかにも中世的な社会環境がみえるところである。ただ、懲戒処分の公開掲示がこれに似たものになっていて、社会的制裁になっているものとして、争われることもある。この場合、見せしめ効果は人事上必要としたうえで、ただし特定の個人に結び付く内容の情報は必要でなく、もし特定の個人と結びつく見せしめならば、必要性を超えたものとして故意・過失性が問われてくる。
懲戒処分は感情を交えず、淡々とすることである。

《処刑を見物する者の心中で、同情心が他のあらゆる感情よりも強くなる時を、だから立法者は刑の苛こくさの限度としなければならない。この限度をこえると、刑は犯人に対して科されるのでなく、見物にむけられたものとなる。》

情状酌量により罰の程度を下げるということか。ここでの趣意は、処分権の濫用は刑の意義を失い、ただ権力を誇示することになってしまうというもの。

《死刑はまた、人々にざんこく行為の手本を与えるということで、もう一つ社会にとって有害だ。》

《人殺しをいみきらい、人殺しを罰する総意の表現にほかならない法律が、公然の殺人を命令する、国民に暗殺を思いとどまらせるために殺人をする-なんとばかげていはしないか?》