●極悪非道な市九郎め!
 「あの人は、こういう人だ」などと、人はよく周囲の人を評価する。
評価に際しては、その人の一面とか二面だけを見て判断する人も少なくない。たとえば、「どうしてこんなクズみたいな人間が議員なんだ!」と思われる人間は、国会にも県会や市会にも紛れ込んでいる。しかし考えてみると、その人に投票した有権者(支持者)がいるはずだ。
 そういう人は一体、相手の何を聞き何を見て、人物を判断しているのだろうか。
 さて、大分県の中津に耶馬溪(やばけい)という観光名所がある。紅葉の時期は客が殺到する。しかしここには、歴史的な名所がある。「青の洞門」というトンネルだ。
 このトンネルに題材をとった感動的な小説が、菊池寛が書いた「恩讐の彼方に」である。
 簡単に粗筋を紹介すると、小説の主人公は市九郎という男。浅草田原町の中川三郎兵衛という旗本の家に奉公していたが、なんと旗本の彼女とできちゃった。それがあるじの三郎兵衛に知られ手討ちになりかけたが、反撃に出るや逆にあるじを殺してしまった。
 仕方がない市九郎は、この女と連れ立ち出奔するや、やがて二人は中山道屈指の難所と言われる鳥居峠に茶屋を出した。仲のいい夫婦茶屋・・と見えたが、じつは相変わらず旅人を襲う強盗殺人が市九郎の陰の本業。ワルの性根は直らないらしい。
 しかし瞬く間に時は流れ、ところは大分県中津の難所、耶馬溪の崖ツ淵。
 土地の人も人馬も、崖ツ淵を這うようにして作られた細い道を越えて、向こう側に行くしか方法はない。しかし長い間には、数知れない人や馬が、崖から転落し犠牲になった。まさに命がけの難所だが、それでもこの崖を這って移動するしか道はない。
●悪人なのか、仏のような積善家なのか
 ちょうどその頃、みすぼらしい坊主が一人この地を訪れ、「隧道(トンネル)さえあれば人も馬も死なずに済む」といって、鑿と金槌で崖の下の岩山を掘り始めた。
 村落の人々は気の遠くなるような夢物語に、気違い坊主とか世迷い乞食と呼び、嘲笑い馬鹿にしていた。しかし、半年がたち一年が過ぎ、三年を経ても鑿と金槌の音は一日たりとも休むことがない。そして一人が茶を運ぶかと思うと、一人が掘削作業の手伝いを始めるようになった。こうやって傍観者たちも共同作業に加わるようになり、掘削は急ピッチで進んだ。とはいえ固い岩山。1746年になり、なんと21年の歳月を費やしてついに隧道は貫通した。
 さて単身掘削を始めた坊さんは「禅海」と称していたが、21年間の日陰での重労働に、堀り始め当時の面影もなく衰え萎えていた。いつも側にいた実之助という若者は、苦労に苦労を重ねる労働だっただけに、この痩せ萎えた坊さんと手を取り合って貫通を喜び合った。
 じつはこの実之助という若者は、市九郎に殺された三郎兵衛の息子で、父の仇である市九郎を捜し求めて故郷を後にしていたのだ。そしてとうとう、「禅海」と名乗り隧道を掘るこの男こそ、いくら憎んでも憎み足りない市九郎と知ったのだった。
 しかしあまりにも、「危険な崖を這う人々を助けたい」と願う悲願と熱意の強さに、昔の市九郎を忘れ去り、仏様のような禅海和尚のパートナーになったのである。
 禅海和尚は隧道が貫通するや実之助の前に、「俺が間違いなく市九郎だ、さあこの場で討て」と全身を投げ出したが実之助は「もはや討ち果たしました。市九郎はもはやこの世にはおりませぬ」と言い、隧道貫通の喜びを二人して手を取り合って喜んだ、というのだ。
 さあ、ここまで読了されたあなたは、21年の歳月を隧道堀りに捧げ尽くした市九郎を、いや禅海を、非道な悪人と言い切れますか。さあどうでしょう。
 菊池寛は、こういう難題を我々に提供し、人間の読み方を問うたのであろう。
 善良ぶった悪人もあれば、刑務所を出た人格者もいる、人の読み方を軽くみてはいけない、という話。