最近の年金相談では、制度に関する深い理解が求められる。
年金特別便以来、相談員は「年金史」をはじめ多面的な世相背景を踏まえる必要に迫られた。恩給、旧令共済、第四種被保険者、脱退手当金といっ旧法モノをはじめ、新法周辺においても細かく「何のために」という質問に答え続けなければならなくなった。答えられなくば、質問者は相談員失格の烙印を随意に押す。なかなか大変である。
「答えが出ないもの、答え(解決)が当事者では困難なこと」を要求することは、不当な行為というのが社会ルールであるが、答えてあげたいとか疑問も当然だということも否定しきれないわけで、詰まるところ、では誰に訊けばよいかということになる。
一番よいのが、議員である。市会議員でも構わない。これは速く回答してもらえる。だが、一般の国民は議員を社会的に阻害している。日本人には「国会を通じて政治実現する」というまどろこしいことを嫌う性格があるのがアダとなっている。したがって、悶々とし、ストレスをため、はけ口を周辺の環境を害することで発散する。そういう国会で決まった法律は、やはりなかなか守られないはずである。そして、議席への保身が手伝い、守ることや適用させるということをリアルに想定していない法律が成立している。
「革命政府」といわれていた民主党政権も今グダグタになっているようだ。その経済力のため今まで政治がグダグダでもいけていたが、その経済力も日に日に陰りをみせている。産業界では労使の関係がさらに悪化しており、労働意欲が低下し、それがさらに消費力を押し下げる。原因は労使の信頼関係が喪われたことであるが、これをまた改善することは時間がかかる。今、雇用促進政策をバックアップしているが、根本原因は労使間の約束が反故にされることが国内全域に横行し、かつその理由が不分明であり事実上破綻させていっているということにある。話し合いすら無いケースがほとんどで、使用者が労働者を忌避するに至っていることが多い。裁判で負けるという理由だが、経営問題としてとらえられていないことが問題である。かつて「親子関係」「夫婦関係」という枠組みで理解されていた労使関係は、日本人が家庭や家族から重心を外していったこともあって今では説明できない。
年金相談の相手は主に高齢者であるので、上記のような労使関係から遠い方が多いが、それはそれで色々と不満が多い。
平成15年まで「特別保険料」という年金に反映されない保険料が徴収されていたが、それに喰い付く方がおられた。年金のことはよく知らないが、年金にもならない保険料がなぜとられていたのかと。ご尤もである。15年から賞与も同率でかかるようになったところから、保険料率を高くしないためと推定できると述べたが、推定じゃダメだとさらに語気が強くなりそうなため、なだめる方にまわった。
そして今、『「消えた年金」を追って』(長妻昭・リヨン社)を読むと、ちゃんと書かれていた。私の推定どおりである。
こういう場面が多すぎることから、色々思うことがある。
就業規則は合理的であれば、使用者は一方的に変更することができるというのが、原則の例外的な解釈になっているが、これはあまり社会契約が瞭然としていない日本社会における国家と国民との関係にもあてはまる。社会保障法自体が、そもそも契約関係と遠い。国民が何を言おうが、憲法に沿って国家は社会保障を決めていくスタンスであるので、国民の方を向いているものではない。ただ、説明に納得してもらうだけで一杯である。しかし、そのスタンスだけだったために、上滑りの法律文化しか造れてこれなかったといえる。国民はあまり抽象的なことに慣れない一方で、国家は具体的なことに慣れない。民主党にそのへんを混ぜてくれると期待し、しかし民主党はマニフェストで信任を得たと解釈した。
とかく日本社会は難しい。