「マツダ勤務時に物を盗まれた」盗聴器相談も 工場12人殺傷


不特定の多数あるいは「大衆」に向けられた憎しみが発展した事件が、近年増加している。これがプロ化したのが即ち「テロ」であることから、とうとうもやもやした世相になった。

刑法の扱いも古い。殺意があったかどうか、動機は何かとの特定作業に難航する。昔の=ある一時期のドイツ刑法学に準じているため、近年の及び日本的な事件にあてはめるのはどうなのか。悟りきった人ならば、法は究極の方便であると言い切るだろう。そして、文化解釈学に戻る。しかし、どうなんだろうか。日本ではこの文化解釈学が異様に伸びきってはいやしまいか。やはり、それにはそれなりの権威というべきものが要るのではあるまいか。

ところで、今回の事件は工場敷地内で起きたことから、大衆問題ではない。したがって、問題の核心はその雇用環境にあるといえる。無論、現在雇用環境といえば、社会問題化しているものであるゆえ、大衆問題さらに国家問題ということもできるが、事件性の面から特定の現場と因果関係があるものとすべきであろう。
中小企業において経営者が直接殺傷されるなどの事件を考えれば、それは直接経営者が因果関係者にあたるということであるが、今回はそうではない。ということは、多くの因果関係者が存在するということである。これまでの記事では「自己破産」などしか載せられていなかったが、ここでようやく、多くの因果関係者を浮きぼらせる記事が載せられている。

《「マツダで働いているときに物を盗まれた」》
《「誰かが自宅に侵入している。盗聴器を仕掛けられた」》

当然、現場にいないとわからないが、これを信ずれば、辻褄は合う。過激な行動に出たという理由はもう少し何かを足さなくてはならないが、「誰かが」自分を追い込んでいるという認識にあったことはまちがいないだろう。問題はこの「誰か」なのである。

仮に労働法であればその責任主体は、実行者(部課長など権限者)と代表者そして法人という設定である。よく言われるように、この者たちは「責任をとるための存在」である。そして、その手腕等によって、人や取引き先は「信用できるとか信用できない」と判断する。それはそうとして、労働事件における民事的要素=ここでは不法行為、の強い事件においては、実質的にも形式的にも、その時期、その雇用環境を構成していた総員が因果関係者となりうる。「誰かが」判然としないかたちで形成された環境であれば、矛先は「総員」ということになる。相当荒削りの論理ということになるが、したがって相手にせず、そのままで放置しているのが日本社会の現状であるように見受けられる。もしくは、見当違いなど。