昭和の労務管理を知る者にとって、労基法をはじめ民事訴訟の法的観点が会社の中に深く入ってくることは当時考えてもいなかったものである。あったことは、労働組合結成表明において憲法による保障が謳われ、それに多くの明治頃生まれの会長が激怒したようなことである。つまり、労働組合くらいしか法律を持ち出さなかった。

そこで、法的保障もなく労働者は働かされていたと外国の方や平成生まれの方は合点してしまうものであるが、全くそうではない。そこに、日本的もしくは発展途上的な性質とも受け取れるものがあった。
昭和の企業体制は鉄板なのであった。軍隊生活ほどではないが、相当な規律重視の秩序体制があった。除隊的な発想はなく、骨を埋めるのを前提にしているため、退職ましてや解雇ということは例外中の例外であった。労働者が憎む相手は社長や会社ではなく、上司や同僚や人事担当者である。まさしく「組織」であり、日本はこうした「組織」を各所に置く状態の、やはり封建体制というべきものであった。したがって、「組織外」の労基法をはじめ民事訴訟という中央的観点は、ほとんどその機能を期待されたものではなかった。占領軍の民主化政策がもっと長く続いておれば変ったはずであろうが、逆戻りに転じ、戦後的現象としてかつての国家を会社になぞらえる流れができ、それが自然に封建的なスタイルをとったまでである。
昭和の時代、まだ国家と会社の従属的関係はあった。公務員に関する制度の幾つかは会社にも流用された。無論、官報購読は必修である。

やはり契機は昭和の終わり頃の経済の自由化であろう。国家と会社の関係は、それまでの封建的な匂いのするものではなくなり、規制から緩和すなわち必罰主義に移ろっていく。それまでの規制内容自体が制度疲労化していたことも大きい。そして、機能を期待されてこなかった労基法や民事訴訟が活きてくる。封建的匂いが薄まる中で、これからも継続して揉まれる段階にある。