「労働時間」法制については、工場法つまり機械等稼働時間に応じた労働での枠組みとして有効である。
長時間労働でイメージとして一般的に思い浮かべるのは、産業革命期のイギリスの状況ではあるまいか。12時間労働、幼少労働者と。
日本ではそれとともに『女工哀史』によって語られたものは、健康障害と寄宿舎(搾取等)問題と有期労働問題と親がする労働契約問題と職業紹介問題と、現行の労基法等に色濃く残っている。

工場労働でなければ、上記に関わる問題はほとんど関係が無いと考えてしまうところであり、事実、現代のサービス産業においてはそれら工場法制的な規定はそぐわないと考えてしまっている素人が多い。

工場での労働でない場合、経営者としては機械等の稼動にかかる時間に配慮しなくていいことによって、無限に働かせようとするのが欲望の常なのである。したがって、工場労働もそれ以外の労働も、経営者の欲望の前には何ら変りはない。
そこにやはり一般的ルールが必要で、それによって経営者の欲望を落ち着かせるのが生理上の観点として必要なのである。
ただほんの僅かの例ではあるが、同じ労働時間で換算しても月額100万を超える給与をもらっている労働者もいる。最賃がどうのこうのという世界とは無縁の人である。おそらく法律上の「管理監督者」もしくは「裁量労働」対象者であろう。また、厚生年金の最高等級を超える者であれば、もう少し多い。これは同族経営である場合が多いだろう。確かに、これらの者については「労働時間」はほとんど意味がなくなっているはずである。労働においてより主体的であるから、保護される立場ではないということである。

なお「労働者」性についても、一概に判断できなくなってきたことは確かである。「請負」と比べれば、就業規則の厳守の有無に終着するわけであるが、難しいのはもともと就業規則あるいは会社による労務管理が弱い状況下での判断である。杜撰さと動きやすさと紙一重のところで、信頼関係というか細い糸の上で成り立っている労使関係あるいは取引関係も少なくない。