憲法で裁判を受ける権利が明記されているが、だいたいその段階で終わっている。
まず裁判所と国民を結びつける弁護士に疎い。次に、訴訟手続きに疎い。
結局身近な行政窓口に相談しに行くというのが国民の当然の行動となる。それがスタートでなくゴールだと勝手に決めつけて行く国民も多く、行政窓口はクレームの巣窟となる。
無論、行政が裁量で行うものに関しては正しい行動であるが、問題は司法的判断を国民が求めるという案件である。当然ながら、行政では窓口はおろか長においても権限外である。
そこで最終的には(あるいはクレーム時間の初段階においても)、裁判所での問題解決を教示するわけであるが、
・それは自分でしなければならない。
・費用は印紙代、特別郵便代。
・弁護士と代理人契約したほうがよい。ただし、多忙であるとか、利益面から引き受けてもらえない可能性も高い。しかし、少なくとも相談だけはすべき。時間は金なりで、知りたいことだけを聞くよう整理しときましょう。
ということになる。
行政側で無料でやってくれるものと思い込んでいた国民は、泣きっ面に蜂になる。
裁判を受ける権利は絵に書いた餅とまで言わないにしろ、紛争解決の方法について国民は無知である。近頃は内容証明を自分で出すようになってきたので、変わりつつはある。自分でやるということを想定して憲法は作られているといえる。ただそれを義務教育の段階で教えていないため、そのまま一生を誤解したまま終えることになる。それはそれで幸せだが、紛争に捲き込まれると、丸投げしてしまい、思う通りいかないと、行政はおろか関係者や裁判所にまで怒りの矛先を向けるという末路を辿ってしまう。
しかも訴訟手続きが要めで、これをわかっていないと方向を誤る。当事者による解決ではなく、第三者に事実確認をしてもらい、判断を下してもらうという要求なのであるから、それがスムーズに行われるように提示できなければならない。理屈と証拠の世界である。裁判官は実際には何も事情を知らない事案について判断を下すため、またある程度の虚偽や誇張も含まれるということを前提として、当事者の言い分を聞いていきながら、心証を作っていく。あるいは早い段階で既に作っていることも少なくなかろう。判決文で回りくどい言い方をしてある場合がこれにあたるとみる。

以上が国民における司法事情である。