『2 刑罰の起源と刑罰権の基礎に関する原理』
《政治上のモラルは、それが人間の不滅の感情に基礎をおいたものでないかぎり、社会に対してなんの永続的な利益も与えることができない。
 この人間の不滅の感情という基礎におかれていない法律はすべてつねに抵抗にあい、ついには打ちまかされなければならない運命にある。》
《そこでこれから、刑罰の起源と刑罰権の真の基礎とを発見するために考察をすすめていくにさいして、私はつねに人間の心情というものを考え合わせながらいきたいと思う。》

社会の永続性と人間の不滅の心情を基礎に置いたところが重要である。社会性の観点と合理性の観点とがまず出されている。
ここから所謂「原始自然状況」的なイメージが叙述されていく。ここはそのままだと会社秩序の説明にはならないので、労働者は個人的な自由の一部を会社に渡す契約を個々に行い、その管理を会社に行わせる。実際には、契約をはじめ就業規則制定権は会社にあるので「行わせる」とまで表現できないが、いったん契約および就業規則が成立すると、会社はそれらにつき優位する権利がある分だけの義務があるとするもので、それは秩序維持する権利と義務という合わせ鏡をもつ。

《各人にその自由の割り前をさし出させるように強制するものは、ただ一つその必要性だけである。》

証拠としては契約、就業規則であるが、その前提として「必要性」がある。それらの規定が会社秩序維持に際しての必要性の認定問題である。それが、懲戒権の基礎とする。

《この基礎を逸脱する刑罰権の行使は、すべて濫用であり、不正である。それは事実上の権力であっても、法にもとづいた権利ではない。》


『3 前章の原理からの帰結』
《右で述べた原理から次のように帰結される。
 第一。法律だけがおのおのの犯罪に対する刑罰を規定することができる。》

裁判官は法律の規定により刑を科し、法律で規定されているより厳しい刑を科すことはできない。また、裁判官はいかなる理由からであっても既に宣告された刑を加重することはできない。これを「罪刑法定主義」という。二重処罰の禁止にも触れられている。懲戒処分についてはそのまま適用されている。ここでいう裁判官は無論、会社の懲罰指令責任者のことである。(なお、ベッカリーアによれば、我々が裁判官とするものは「司法官」としてまた別にあるようだ。)

第二については、その司法官のことで、司法官は懲戒事由についての争いに裁定を下すものであるが、「彼はただ純すいに犯罪があったかなかったかを宣告するべき」とある。懲戒処分事案については会社の社会的信用に触れてあることも少なくなく、それは双方から提出された疎明資料からみても社会的信用失墜の証明自体法的に認定するのは困難である。しかし、懲戒事由とする以上主張等はされなければなるまい。心証事案ともいえる。

第三は「ざんぎゃくな刑罰」について触れてあり、それは社会的に不必要という理由だけでただ不正であるとしている。読み替えるとするならば、標準的な就業規則に則らない契約上の懲戒事項というものが巷にある。ノルマ未達成ならば〇〇、クレーム起したら〇〇などの類であり、労働条件通知書とは別に、誓約書というかたちで提出を入社時に求められるという類である。これらは必要でない不正なもので過剰な措置でしかない。日本的雇用は基本的に個人的な自由の享有と会社の秩序とが人生設計においてそれなりに組み合わせられているものであり、40年トータルで平準化されるという構想の下で成り立っていた。したがって、法定労働時間という規定はあまり意味をなさなかったといえ、またその分無理も効いた。それなりに個々に会社との関係において「貸し」「借り」の計算をしていたわけである。しかし現代労働事情はまた大正期の女工哀史の頃に戻ったかのような相談も多い。昭和式が否定されれば大正式、平成は何もできなかったのか。紛争解決はできるようになっているが、平成式というものがない。