『4 法律の解釈』

《刑事裁判官は刑罰法規を解釈する権限をもたない。それは彼が立法者でないというその同じ理由にもとづく。裁判官は法律を、われわれの祖先から家族的な因習として、あるいは子孫が実行しなければならない遺言として受けとったのではない。生きて存続している社会、あるいはその社会の現実の意思の合法的に委託された者でありその代表者である立法者から、受け取っているのである。》

これを懲戒処分のために読みかえると、立法者は会社となり、また裁判官も会社となるものだが、それには「その社会の現実の意思」の委託という点に基くというところが肝要である。それぞれの処分が組織秩序に関して合理的なものであるかどうかということになる。

《法律の合法性は、古代の契約を実行する義務にもとづいて存在するのではない。古代の契約は無効である。なぜなら、古代の契約はその当時存在していなかった意思を拘束することはできないから。》

これについてはベッカリーアの註がわかりやすい。
《あなたががもし何か義務をはたすことを要求するばあい、あなたがたがその義務がどんなものであるかを知っていなくてはならないはずである。》

つまり、ここでいう「古代」とは時代観念のことではなく、「与り知らない契約義務」と解釈すればよいだろう。日常的なトラブルの大半の原因ともいえる。かつての長期雇用の秩序ならびに企業間安定取引下においては「あんうんの呼吸」でスピーディーかつ満足感が得られた一方で、代替わり等する度や経済環境変動により「与り知らない契約義務」がトラブルの原因として浮上してきたのはその成り行きである。近年では仕事の仕方の説明を巡って顕著になってきたといえる。「マニュアル」というツールがそういう背景で登場してきたものだが、それで網羅できるものでもなく、人材教育がうまくいかないことがきっかけとなってハラスメントや解雇問題というかたちに発展することが多い。

《裁判官は一種の完全な三段論法によらなければならない。まず大前提として、一般法に適用する法。小前提は合法または違法の行為である。そして結論は被告の無罪放免か刑罰である。》

「一般法」というのは民法や労働関係諸法令と、小前提は自社の懲戒規定に照らしてどうか、そしてその処断の判定という対応でよいと思われる。

《法律が成文としてはっきり規定されており、司法官の役目は、ただ国民の行為を審査し、その行為が違法であるか適法であるかを法律の条文にてらして判断することだけになれば、そしてまた、無知な者であろうと、有識者であろうとそのすべての行動を指導する正と不正の規範が、議論の余地のないものであり、単純な事実問題でしかないことになれば、そのときは国民が無数の小圧制者のために苦しむことはもう見られなくなるだろう。》

実際には成文化されただけでの予見性は不確実さを免れ得ない。そこで証拠、証明力に重きを置かれているが、そのため不具合も起りうる。

《文字どおり施行される刑法があれば、国民は自分の不正行為からくるまずい結果を正確に知り、それを避けることができる。これは国民を犯罪から遠ざけるために有用なことである。こうして人々は一身と財産の安全を享受する。これは正しいことである。なぜなら人類が社会に結合する目的はここにあるからである。》

警告的意味は説明を要しない。

《また、このことから国民が自由と独立の精神をかちとることもたしかだ。彼らはもう支配者の気まぐれのまにまにただ盲目的に服従する弱さを徳と呼ぶような連中のドレイではない。しかしそれはすこしも、彼らが法と神聖な裁判官に服従しないということではないのである。》

日本の雇用環境においても最も厄介なのが「支配者の気まぐれ」となる。経済記事などで、明るい社員がいる会社が特集として取上げられるくらいである。高度成長期においては、経営陣の存在を脅かすような存在のある会社員も多かった。(辞めてほしいが、あいつがおらんようになったら会社は回らない)という存在である。今は会社の赤字等を社員の給与減を超えて搾取、借り入れ(合意取り引きもあるが、返済できずの金銭トラブルとなる)で埋め合わせている経営陣も増えている。
また、「請負」契約もまた見直されつつあるが、雇用観念に引きずられている例が多い。なかなか「自由と独立の精神」で働く、働かせるというのは当たり前ではない。