『12 拷問について』

《被告に対する拷問は大多数の国でおこなわれてきた野蛮行為である。それは取調べにさいして用いられるものであって、あるいは被告から犯罪の自白をひき出すために、あるいは被告が供述の中でおちいった矛盾をただすために、あるいは共犯を発見するために、そしてまたその被告が当面それについて訴追を受けてはいないが、あるいは犯人かもしれない他の犯罪をひきださせるために、加えられる。》

労務管理の観点に置き換えてみると、上記のようなケースはほとんど見られなくなった。今日において見受けられるのは、単純な暴力そして嫌がらせである。しかもそのほとんどは取調べの域に達していない段階のものであり、そしてそれがすべてである。組織秩序をベースとしないトラブル所謂パワハラがそれである。これは、日本の組織が模範もなく自然にできた状態で推移しているからである。それは主として、税制や取引等の理由での一応(株式)会社のかたちを取っているということからくる。これでは、日本の司法でその懲戒を認める要素はないはずである。

《なん人も、裁判官の判決があるまでは、有罪とみなされることはできない。社会がある市民からその公的保護をうばうことは、その市民が彼にこの保護を与えている社会契約を侵害したという宣告を受けたのち、はじめて可能になるのだ。それなのに被告が有罪であるか、無罪であるかがまだ疑わしいときに、彼に一種の刑罰(拷問)を与える権能を、裁判官に与える法律は、暴力の法でなくてなんだろう?》

正当な懲戒手続を受ける権利が守られなければならない。日本の司法では、この侵害を不法行為だと積極的に適用するまでには至っていないのかもしれないが、手続きの不備をもって、懲戒事由を問うまでもなく、その処分を無効とすることは期待し得る。

《いったい刑罰の目的はなにか?それは犯罪におもむこうとする他の人々の心にみせしめによってきざまれる威嚇である。》

したがって、その公表は合理性がある。ただし、処分者を知らせることには合理性がない。

《しかし拷問は-圧政が、慣行的に、人目はなれた監房の中で犯人にとおなじくむじつの者にも加える、この秘密のせめ苦は-どう弁解できるのか?》
《すでに犯された犯罪で、もういまさら救済方法のないものは、つぎの目的のため以外に政治社会によって罰されるべきでない。すなわち不罰が、同じような犯罪を犯しても罰されないという希望を、他の人々にもたせるばあいにかぎって、その希望をおいはらうために犯人を罰してよいのである。》
《私はさらにつけくわえるが、ある人間にみずからの告発者になれと要求すること、まるで真実が不幸な人間の筋肉やせんいの中にやどっているとでもいうように、せめ苦によって被告から真実をしぼり出そうとすることは、言語道断な、ばかげたことだ。》

《われわれの意思行為は、その行為の原因となっている感覚におよぼす圧力に比例する。しかも人間の感受性には限度がある。だから苦痛の圧力が、被告の魂の根かぎりの力をくいつくしてしまうまで強まったとき、彼はその瞬間もう目の前の苦痛からのがれるもっともてっとりばやい方法をとることしか考えなくなる。このようにして、被告の答弁は火やにえ湯が人間のヒフに与える結果のように、必然の結果でしかない。
こうしてせめ苦に対する抵抗力の弱いむじつの者はじぶんは有罪だとじぶんでさけぶのだ。有罪の者とむじつの者とを見わけるためのその方法じたいが、有罪とむじつの区別をけしてしまうのだ。
拷問は、だから、しばしば、弱いむじつの者にとっては断罪の確実な手段であり、がんじょうな悪党にとっては無罪放免の手段である。》

後半は箇条書きで。
・被告人の自白を求める習慣は宗教的なざんげというところに由来するとのこと。
・ローマ立法では拷問の非合理性は既に取上げられており、いっさいの権利を拒まれていた奴隷のみ拷問を許していたとのこと。
・軍隊の法律は拷問を認めていないとのこと。「人殺しに慣れ、血にしたしんでいるこれらの人々が、平和な国家の立法者に、より人道的に人を裁くという異本を示すとは!」と皮肉的に記している。